は彼女が好まない。いつでも自由に逢える場所はないものか。おれの方では、スキャンダルなんかは一向に恐れない。彼女の方でも、世間体をそうびくびくしてるわけではない。老いらくの恋で人妻を奪った者さえある。けれど、二人の仲は秘密にしておく必要がある。
 原因は、彼女の主人の吝嗇にある。彼は元陸軍将校で、相当な財産を持っていた上に、終戦後、旧部下の者数名と商事会社を作り、ヤミ物資の売買をして、更に財産をふやした。放蕩はするし、情婦もあるらしいし、妻への愛着は少いようだ。その代り、家庭の経済には監督厳重で、嘗て、妻の品行に聊かの疑惑を懐いた時、嫉妬はせず、その代り、金を殆んど与えなかった、そういうことを、彼女は恐怖している。
 彼女は、映画はあまり見ないが、新旧とも芝居が好きだし、短歌会などにはいって、へたな歌をこねまわし、ダンスはしないけれど、うまいコーヒーやケーキを好み、アルコール類も可なり嗜み、日常が贅沢で派手なのだ。貧乏華族の娘だったとかで、どこかおおまかだ。そういうところに実は、家庭における主人の吝嗇が胚胎してるのかも知れない。彼女はずいぶん金がかかる女のようだ。
「無一文になったら、わたし、死んでしまうかも知れない。」
 冗談でなく彼女は言う。だから、おれとの仲が主人にばれて、小遣銭が全く封じられたら、それは彼女にとって生きながらの死を意味するだろう。だからといって、主人の財産の中から、自由になる金を予めごまかしておくだけの才覚もない。いざとなったら、おれのところへ飛び込んで来て、同棲生活をするという、それだけの勇気もないし、てんで、そのようなこと考えてもみないらしい。彼女は旅を億劫がり、結婚後、主人の任地へも行ったことがなく、いつも東京の邸宅に暮していたらしく、避暑とか避寒とかの旅もしない。おれのところへ飛び込んで来るなどということは、旅行以上の冒険なのだ。
 だが、このおれにしても、物ぐさなことにかけては、彼女と変りない。彼女との同棲生活など、おれも考えたことはない。嘗て妻と喧嘩別れをし、正式に離別した時は、むしろさっぱりした気持ちだった。家の中で一定の地位を持ち権力を持つ女性との生活は、一度だけでもう沢山だ。身辺の多少の不便さなどは、考えようでどうにでもなる。現に、女中と本間さよ子とがいるだけで、何の不便も感じない。
 然し、貧乏なのは、これは困る。金があれば
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