しておれの眼前に、忽然と、相馬武彦の姿が現われた。多加代の夫だ。おれは彼を一度か二度、あの文化式な住宅の横手の菜園に見かけたことがある。いろんな野菜を作って、自分で手入れしてるのだ。外浪費で内吝嗇の、そして案外すらりとした恰好の男だ。ちょっと旅行に出てた筈だが、ふいに帰って来るかなにかして、そのために多加代は来られなくなったのかも知れない。彼奴と決闘してやろう。元将校だって何だって、たかの知れた野郎だ。用捨なく殺してやるまでだ。きっと殺してみせる。
決闘の場面が、ちらちらと回転する。急いではいけない。ゆっくりと味ってやれ。おれは起き上って、ジンのグラスを取りあげた。
あたりはしんしんと静まり返っている。深い水底のけはいだ。虫の声もせず、ことりとの物音もなく、大気は淀んでいる。
煙のようなものが、どこかに渦巻き渦巻き拡がってゆく。
「中根圭次郎。」
おれの名を呼んだ。誰だ。
見まわしたが、書棚の硝子戸がぼーっと白んでるだけで、異状はない。違う棚の隅にある二尺ほどの仏像が、にこにこしてるようだ。おれは頬笑ましくなった。
「汝の享楽の……。」
ちょっと声を途絶える。
「なんぞ卑賤なる。」
聞き覚えのある文句だ。
「なんぞ卑俗なる。」
言い直したな。
「なんぞ下劣なる。」
また言い直したな。
それきり声は沈黙した。おれはジンのグラスを取り上げた。頭が少しふらつくようだ。やはり日本酒の方がいい。電熱器にスイッチを入れると、ぢぢぢぢと音がする。
「災厄は一日にして成らず。」
声に答えて、おれは大声で言い直してやった。
「ローマは一日にして成らず。」
「災厄は一日にして成らず。」と声が言う。
「ローマは一日にして成らず。」とおれが言う。
「災厄は一日にして成らず。」
「ローマは一日にして成らず。」
「災厄は一日にして成らず。」
おれはもう返事をせず、相手にならないことにした。すると、あとはもうめちゃくちゃだ。
「ばか、ばか、ばか。……恥さらし。……くたばっちまえ。……まだ酔わないか。……飲め、飲め、くたばるまで飲め。」
あの仏像が、口を利いてるらしい。おれは突然、全く意外に、瞬間的な突然さで、かっと腹が立った。唇をかんで、あたりを見ると、アスパラガスの缶詰、梨、チーズ、香味料の壜、いろんな物があり、鶏卵が鉢に盛ってある。卵の黄身をやたらにすするのは、彼女
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