云えない気持だった。灰汁《あく》を払い落した病後の力無い健かさとも、またはすっかり圧倒されつくした疲憊の極とも、何れとも分たない清々《すがすが》しさだった。そして私は思うさま胸の奥底まで、冷たい空気を吸い込んだ。吸い込んではまた吸い込んだ。軽々と胸の底まで息の出来ることは、何よりも一番いいことだ。私はベンチに腰を掛けたまま、両足をばたばたやってみた。
 その時何かしら下駄の先に、冴えた音を立てるものがあった。屈み込んでよく見ると、一銭銅貨が一つ落ちていた。私は何気なくそれを拾い上げてみたが、神……というものがあればその神から、恵まれたもののような気がして、袂の中にしまい込んだ。そして立上って、何だか急に悪寒を覚えながら、まだ電車もない遠い道を、下宿の方へ帰っていった。



底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「改造」
   1923(大正12)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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