阿亀
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)阿亀《おかめ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)2[#「2」はローマ数字、1−13−22]
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電車通りから狭い路地をはいると、すぐ右手に一寸小綺麗な撞球場があった。電車通りに面した表の方は、煙草店になっていて、各国産の袋や缶の雑多な色彩が、棚の上に盛り上っていた。その店から、磨硝子の戸を距てて、撞球台が二つ並んでいる広間となり、奥は障子越しに、家の人達の住居になっていた。
ゲーム取りの女が二人いた。――客の少ない時はそのうちの年上の方が、客の多い時はお上さんが、煙草店の方に坐っていた。随って、球を撞きながらうまい煙草が吸えた。磨硝子の戸を一寸開いて、上等の葉巻を一本求めても、少しも可笑しくはなかった。随って、客は大抵愛煙家だった。その常連が、勤人とか小店主とか、そういった中年の人達で、長時間遊んでゆく者は少なく、数も多くなく、またふりの客も少ないので、場内はいつも静かだった。
その静かな、時にはがらんとした感じの広間の一方、奥へ通ずる障子の上の欄間に、見事な阿亀《おかめ》の面が、白々と浮出していた。能面の二倍ほどもある大きさのもので、欄間一杯の扇の真中に恵比須《えびす》と大黒との像のはいった小箱をわきにして、にこやかな永遠の笑顔を見せていた。それが、わりに静かな場内の空気のせいか、不思議にも、煙草の煙や撞球の道具などの新世紀風の中に、しっくりと調和して落着いていた。天井の高い広間の明るみの中に、白々と浮出していながら、殆んど人の注意を惹かないくらいまで、安らかに落着き払っていた。
が、或る晩、その阿亀の面が、本当ににこにこっと笑い出した、と云って佐竹謙次郎が、次のような話をした。
風がなくて、霧が深かった。満腹していた。酒の酔が、全身に隈なく廻っていた。うまい煙草でも吹かしたい気持だった。――だから、僕は木谷についていった、もう十時過ぎだというのに。
「十時といったって、撞球場ではまだ宵のうちだぜ。看板は十二時迄だが、大抵一時過ぎになるんだから。」
然し僕は、木谷みたいに、そこの家の常連ではない。それに、撞球はからっ下手でさほどの興味もない。ただ、赤と白との四つの象牙球が、表面に美しい光の反映を浮べながら、青羅紗の上をつつーと滑ったり、こーんとぶつかったりする、それを眺めてるのが好きなだけだ。
――煙草でも吹かして見物するか。
七八間先は見えないほどの濃霧だった。その中から、天井も壁も真白な広い撞球場の中に飛び込むと、心の眼がぽかっと開いたような工合だった。阿亀の面が、没表情な永遠な笑顔で、天井の一隅から見下している。
――ほほう。
こちらの台で、二人の青年が球を撞いていた。あちらの台では、色の黒い中年の男が、ゲーム取りの女を相手に遊んでいた。
「どうです。」
木谷はもう僕なんかには構わずに、つかつかとあちらの台の方へ進んでいった。
「やあー、今相手がないものですから……。」
「止しましょうか。」
男の言葉を引取って、顔はまずいが眼付の甘ったるい女は、ぱっとキュー先で球を乱してしまった。男の黒い顔は、黙ってにやにやしていた。
「何だい、急に……僕が来たからって……。」とは云いながら、木谷はもうキューを取りかけていた。「佐竹君、君先に一つ……。」
「いや僕は、見物の方がいいや。」
「そう。じゃあ失敬して……。」
そして、木谷と男がゲームを初めてるうちに、僕は水を一杯貰って、飲み終ったコップを横手の小卓へ置きにいって、振向いたとたんに、彼女とぱったり眼を見合してしまった。
彼女……というのは、入口に近い窓際の長椅子に坐っている、服装から髪恰好まで一寸生意気な、どこかつんとした調子のある、二十二三の女だった。それが、よく見ると、僕が行きつけのカフェーに以前いた、お久という女給だ。
――おや、変なところに……。
じっと見つめると、お久はあるかないかの会釈を眼付に示して、そのまま顔を伏せてしまった。
見廻したが、連れらしい者もない。
――変な奴だな、カフェーから姿を隠し、こんなところに……。
怪しいという気持と、一寸親しみの気持とで、何気ない風をして寄っていった。
「暫くだね……。」
低めたつもりの声が、がんと響いたと思われるほど強く反応して、彼女ははっと顔を挙げた。
「どうしたんだい……球を撞くのかい。」
真正面に見向いてる眼が、軽い滑稽な敵意を帯びて、わざとらしく睥めている。――二三ヶ月以前よりは、顔が引締って綺麗になっていた。
「いいえ、球なんか……。」
「じゃあ……。」
「一寸用があった……。」
「へえー……。」
「今ね、家をもってるのよ。」
笑いかけた眼付へ、とたんにぶっつけられたその言葉が、低く、説きさとすような調子に響いたので、持ってゆきどころのない気持から、ぼんやりと眼と口とを打開いた。と、彼女はくしゃくしゃな顰め顔をした。目玉を寄せ、眉根を寄せ、頬辺と口許とを歪めて、怒ってるのか笑ってるのか分らない、痙攣的な顰め顔だった。
「それは……。」
お目出度い……という言葉が口から出なくて、変にこじれてくると、やがて、彼女の方がじれ出したらしく、足をばたりばたりやり初めた。
「お目出度いね。」
漸くいってしまって、ほっとしたはずみに、ふと気付いたのだが、室の中の注意がこちらに向いていた。
一体、撞球場の中の空気というものは変梃だ。凡ての中心が球にある。中にいる者は固より、飛びこんでいったばかりの者まで、意識がみな球の方へ吸い寄せられる。親しい顔がずらりと並んでいても、ふと眼の向いたものと機械的な会釈が交わされるだけで、みな全くの他人で土偶《でく》に等しく、球だけが生々と活躍して、あらゆるものの中心となる。それが今、どうしたことか、皆の注意が球を外れて、僕の方へ向いている。
――はて……。
見廻すと、向うの方で木谷が、キューにチョークをつけながら、何やら目配せをしていた。その目配せが、急にさし招くような上目睥みに変った。
――何かしくじったのかな。
と同時に、変にぎくりとした。
「いや……失敬。」
彼女は立上って、いやに丁寧なお辞儀をした。
「どうだい、調子は……。」
木谷の方へやって来ながら、僕はそんな風に平気を装ったが、何かしら落着けなかった。お久の方を偸み見ると、斜め向う向きに、束髪の大きな鼈甲ピンをつんとさして、固くなって控えている。
――ふん、何だい。
何がともなく癪にさわるので、木谷に代ってキューを手にした。が固より、初歩の域をいくらも脱しない腕前だったし、当りのよい筈はなかった。それに、相手の中年の男が、特別に落着払っていた。日焼けではなく元来の肌色らしい色黒の男で、狭い額のあたりが一際黒くて、憂鬱な影を湛えてるように見え、小さい円い眼がきょとんと黒ずんでいて、少し長すぎるらしい両腕を、蟹の足みたいに曲げる癖があって、その全体の感じに、ロシア的な薄暗い影がこもっていた。にも拘らず、頬の肉はいつも笑みを刻んでいる。
その男の、全体の陰鬱な感じと、穏かな微笑とが、別々になって僕に働きかけてきた。その上、向うにお久が澄しこんでることも、始終意識にひっかかってきた。それを、がむしゃらに押しきって、強いばら球ばかりを撞いてやった。
一回負けて、二回目にはいった時、他方の台の青年は、ゲームを止して帰りかけた。
「行こう。」
そういう言葉が耳についたので、ちらと見やると、青年のうちの一人が、お久と連れ立って出て行こうとしていた。
――なあーんだ。
二人は見返りもしないで、肩を並べて出て行った。
僕は二回も負け、こんどは木谷が相手をしようというのを郤けて、球の方は木谷と中年の男とに任したままぼんやり考えこんだ。残された青年の一人が、暫くつっ立って球をいじっていたが、やがてつまらなそうに帰っていった。
――彼奴かな。
お久と一緒に出て行った青年の姿が、初めは気にも留めなかったが、その時になって、はっきり頭の中に描き出された。青年といっても、学生といっても、学生と会社員との中間に当るくらいの年配と様子とで、セルの着物を一枚無造作にひっかけた恰好が、肩の骨立った張り工合から、腰の薄べったい痩せ工合など、呼吸器でも悪そうな風の男で、細面の顔が蒼白かった。始終知らん顔をして、目交え一つしなかったが、二人で並んで出て行った様子を見ると、お久と家をもってるのらしい。
「あの男ね……先刻出ていった……あれは、始終ここに来るのかい。」
木谷が側に来た時、僕はそう聞いてみた。
「ああ、常連の一人だよ。伊坂といって、球はなかなか強いんだ。」
「伊坂……。」
――あの男か。
お久がカフェーに出ていた頃、始終つけ狙ってる男があった。それがたしか、伊坂というのだった。
「うるさくって、面倒くさくって、本当に仕様がないのよ。……あら、あたしの方は何でもないわよ。」
平川や僕を相手に、お久はそういって笑っていたのだが……。
「君、知ってるのかい、あの女を。」
木谷は球を外すと、相手が撞いてる間僕の側にやってきて、薄ら笑いをしながら、いろんなことを饒舌っていった。
「あれは君、伊坂の細君なんだぜ。もとはカフェーに出てたとかいう噂なんだが、家をもっても、どこかそういった様子が残ってるようだね。こんなところにまで、図々しく押しかけて来たりしたりしてね。勿論、自分で来なけりゃ人がいないのかも知れないが、そんなにまでして、仲いいところを見せつけなくったって……。あ、私ですか。」
木谷がキューを取上げると、僕は一人で回想するのである。――当時平川は、お久に一寸気を惹かれて、しげしげカフェーに通ったものだった。その平川に向って、お久はよく伊坂のことを話した。どうも本気らしいから、あたし迷ってる最中だとか、嫌だけれど仕方がないとか、家の近くを夜遅くまでうろつき廻るんだとか……。
「おかしいんだよ君。」と木谷は声も低めずに云うのである。
「伊坂が球撞にこって、夜遅くまで家に戻らないのが、細君は嫌でたまらないらしいんだ。球撞ぐらい、いくらこったってよさそうなものじゃないか。それを、嫉妬……といっちゃ悪いか知れないが、気に病んで、十時頃になると、屹度自分でああして迎いに来るんだそうだ。」
或る時――これは前の方の話だが――伊坂は夜更けまでカフェーの前をうろつき廻っていて、巡査に咎められたことがあったそうである。お久は住み込みの女給になっていたが、そのカフェーが戸を締めて、すっかり寝静まってしまっても、何故か伊坂は付近から立去らなかった。春と云ってもまだ寒い夜のことで、もう人通りも絶えてしまったその往来を、犬のようにうそうそ歩いてるので、通りがかりの巡査が見咎めると、伊坂の答えが振っていた。実はこのカフェーに、自分の遠縁に当る女給がいて、夜分変な男がよく呼び出しに来て困るというから、一寸見廻ってたところだ……と。その巡査が翌日カフェーにやって来たので、話はぱっとなった。よく聞いてみると、実意を見せて下すったら……とお久が伊坂に約束したとか。
「一時遁れのでたらめな約束をして、あたし困っちゃったわ。でもまさかそうもいえないから、やっぱり、遠縁に当る人だって答えたんだけれど、冷汗をかいちゃったのよ。」
だが、話の本当の筋途は平川にも僕にも分らなかった。そして、巡査を利用して実意を示すという伊坂のやり口だけが、噂の種に残ったのだが……。
「君も随分むてっぽうだな。何の見境もなく、いきなり人の細君に馴々しく話しかけるなんて……。」
前につっ立ってそんなことをいってる木谷の顔を、僕は回想から覚めて、ぼんやり見上げていた。
「僕はわきでひやひやしちゃったよ。ひょんなことを君が饒舌り出しやしないかと思って……。」
「だが僕達の間では、随分話の種の多い女なんだからね。」
「それにしたって……
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