着くことの出来たなつかしいカツギヤ宿だ。
 ところが、女中に勘定をたのむ時、酔いかけてる善良な親切な俺が、恥しいことを言った。
「あの娘さん、勘定は払ったかね。」
「払って行ったよ。」
 女中は答えて、怪訝そうに俺の顔をじっと見た。
 俺は恥しくて、顔が赤くなる思いをした。
「いや、僕の分まで払ったかと思ってね。」
「ばかなこと言いなさんな。」
 そうだ、ばかなこと言うもんじゃないと、俺は煙草をすぱすぱ吹かした。

 岩木周作の家は、焼け残りの閑静な地域にある。板塀の上から差出てる百日紅の枝に、きれいな花が咲いていた。
 訪れると、細君の久子さんが出て来た。名前は知ってるが、初対面だ。背は高い方で、顔の輪郭から、眼や鼻や口や、身体つきまですべて、如何にも細そりした感じのひとである。――あとで岩木から聞いたところによると、彼女は嘗て肋膜を病み、それから引続いて神経衰弱の痼疾になやんでいるとか。
 俺の名刺を見て、彼女はひどく驚いたらしい。
「まあ、どうしましょう。」
 独語を呟いて、それから我に返ったようだった。主人がたいへん待っていたこと、市役所の何かの委員会に出かけているが、電話をすればすぐに帰って来るだろうことなど、口籠り加減に言う。だが、家にあがれとは言わない。
 俺はちょっと困った。
「それでは、そのへんを少し散歩してきますから……。」
 辞し去ろうとすると、彼女はあわてて引留め、座敷へ俺を通した。そして引込んだきり、なかなか出て来ない。
 鍵の手になってる建物の、あちらの一廓が賑かだ。あとで聞いたことだが、戦災にあった親戚の大人数の一家が住んでいる。こちらの方はひっそりしている。可なり広い庭に、適度な植込みがあり、頬白が茂みの中に動いている。その庭の、縁側伝いの彼方に、セメント造りの大きな池があり、どういう仕掛けか水がちょろちょろ注いでいて、みごとな真鯉がいくつも泳いでいた。
 その池のところへ行って、俺は鯉を眺めた。そしてそこで、紅茶をのみ、果物をたべ、新聞をよみ、また鯉を眺めた。午後になってすぐ岩木が帰ってくると、彼といっしょに鯉を三尾ほど捕えて、それを酒の肴に料理した。
 岩木は十年前と殆んど変っていなかった。俺の方も変っていないと彼はいう。そして二人で顔見合せて笑い、楽しく語り合った。だがそれらのことは、この物語と関りないから、省略しよう。
 俺の旅程では、どうしても、その晩の汽車で立たなければならない。スーツケースも駅に一時預けしてきたほどだ。だから二人は、急いで飲み、急いで食い、急いでいろいろなことを話した。その話に、久子さんは殆んど加わらなかった。別な存在のようで、或は人形のようで、ただ席に侍ってるだけだ。料理などもたいてい、彼女がおばさんと呼んでるひと、あちらに住んでる親戚のひとであろうが、そのひとがしてくれてるようだ。
「このひとは、まったくお姫さまだよ。」と岩木は言った。
 だがそんな話は、つまり家庭的な個別的な話題は、すぐに飛び越えて、他の重大な話に、つまり一般的な話題に、移っていった。
 そして、眼には見えないが仄かに暮れかけてきた頃のこと、玄関のベルが鳴った。久子さんが出て行った。しばらくして彼女は戻って来た。
「清水さんに、お客さまですよ。」
 俺は合点がゆかないのだ。
「間違いでしょう。僕はここではほかに知人はないし、昨晩、それも夜明け前に……。」
 言いかけて、ふと思い当った。
「どんな人ですか。」
「若い女のひとです。」
 俺は息を呑んだ。自分でふしぎなほど狼狽し、それから腹が立った。
「追い返して下さい。図々しいにも程がある。呆れた奴だ。」
「どうしたんだい。」と岩木が尋ねた。
 そこで俺は、話し忘れていたこと、あのヤミ宿での一件を、あらまし打ち明けた。
「なあんだ、それだけか。いたずらでもしたんじゃないのかい。」
「なんぼ俺が物好きでもね。ただちょっと、感傷的に同情したものだから、名刺の裏に君の名前を書いて渡した、それがしくじりの元だ。」
 俺は眉をひそめたが、岩木は仔細げに小首を傾げた。
「まあ待て、僕にも関係がある。話を聞いてみようじゃないか。」
 彼は自分で立って行った。そしてあの娘を連れて来た。娘は室の隅っこにぴたりと坐って、慴えたように身を固くしている。
「話は清水君から聞きましたが、伯母さんのこと、どうでした。」
「はい。」
 一言答えたきり、言葉を切った。その顔を見て、俺はちと戸惑いした。あの時、娘は夢でも見てるかのように、ただぼーっとして、殆んど表情がなかった。ところが今、その同じ丸っこい顔に、うち沈んだ影がさし、少し落ち窪んだ眼に、涙さえ浮べてるらしい。
「はい。」と娘はまた言った。「市役所で調べて貰いました。伯母さんは、やっぱり亡くなっておりました。お墓は分りません。……ありがとうございました。お礼に伺いました。」
 頭が畳につくほどのお辞儀をして、娘は立ち上りかけた。
 それを、久子さんが引留めた。
「まあ、宜しいでしょう。ゆっくりしていらっしゃいよ。」
 久子さんのその様子が、俺の注意を惹いた。彼女はさきほどから、娘の方をじっと見てばかりいた。何事にも無関心のような、細そりした彼女が、敵意とも好意とも分らない眼の光りで、じっと見ているのだ。そして二人の男をさし置いて、娘を引留めたのである。
 娘は進退に窮した様子で、ちょっと腰をおちつけて、両手を握り合している。
「亡くなった人は、仕方がありませんよ。」と岩木は言った。「然しはっきり分って、来られた甲斐があったというものです。生死不明の人が、ここでもずいぶんありますからね。」
「はい。」と娘はまた言った。
 久子さんは立っていって、台所から料理物を運んできた。そして娘にすすめた。
「こちらへいらっしゃいよ。疲れたでしょう。なんにもないけれど、あがって下さい。」
 娘は臼のように坐りきったまま、食卓へ近寄ろうとしなかった。
「一杯いかが?」
 久子さんは盃をすすめた。
「頂けません。」
「そう。ではなにか召上れよ。いま御飯も出来ますから。」
 娘は黙っていたが、ふいに顔を伏せ、ハンカチを眼にあてて、泣きだしてしまった。
「どうしたの。」
 久子さんが寄り添ってゆくと、娘はますます泣いた。
 どうもへんだ。娘が泣きだしたことではない。すべてに於て、なにか調子が狂ったようで、どこが狂ったのか、俺にも分らない。俺はただ酒を飲んだ。
 娘は突然、ぴたりと泣きやんだ。眼を拭いた。極りわるそうな風もなく、悲しそうでもなく、微笑の影も浮べず、没表情な顔に返っている。
「いろいろ、ありがとうございました。これから、くにへ帰ります。」
 丁寧なお辞儀をして、あとしざりに、室から出て行った。
 久子さんが玄関まで送ってゆき、しばらく手間取った。
 俺も岩木も黙っていた。
 久子さんが戻ってくると、岩木はいぶかしそうに彼女を眺めた。
「お前はへんだったよ。あの娘と、まるで、前から識り合いみたいだ。」
「だって、可哀そうです。」強い語調だ。「重そうなカバンをさげていましたわ。」
「市役所からここまで、なんのために来たのかなあ。」
「お礼を言いに来たと、申しておりました。」
「帰りに何か言ったかい。」
「くり返しお礼を言って、それから、御気嫌よろしゅう、と言いました。」
「なに、御気嫌よろしゅう………まるで貴婦人みたいじゃないか。」
 久子さんは気を悪くしたらしく、黙りこんでしまった。――それからずっと、彼女はあまり口を利かなかったようだ。ちょっと気が立って、中途で機嫌をわるくし、そのまま人形めいた平常に滑りこんだのであろうか。
 俺ははじめて口を開いた。
「貴婦人でそして無筆だろう。手紙が書けないものだから、口頭で礼を言いに来たんだ。」
 毒舌でも吐かなければ、腹の虫がおさまらなかったのだ。ほんとうは、なにかしら悲しく苦しかった。
 俺も岩木も、ちと気持ちが乱され、そして酒を飲んだ。酔いが廻るにつれて、娘のことなど忘れてしまった。それからまた、いろいろなことを話し、いろいろなことを論じた。夜になって、岩木は俺を駅まで見送ってくれた。こんどは東京で逢おうと約束した。人生はつまらんものだと二人は同意した。汽車が動きだすとすぐ、岩木は歩み去ってゆく。俺は空席を見つけて、そこに深々と腰をおろし煙草を吸った。ポケットの中には、紙にくるんだヘヤーピンがあった。ああそのヘヤーピン一本、顔を見せないで手先だけの無償の親切、それがいちばんすっきりと俺の心に残ったのである。



底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「人間喜劇」
   1948(昭和23)年10月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング