魂が宿ってくる。然し写真のレンズのような眼で見られる時、がらくたは何処までもがらくたである。
 凡庸な眼で見られた凡庸な家常茶飯事、そういう作品が所謂ヒューメーンだという仮面の下に逃げ込んでゆく。人はそれを深く追求しないで、なるほどヒューメーンだと感心する。そういう傾向が増長してゆく時、文壇には行きづまった腐爛の空気が漂ってくる。――批評家の方に就て云えば、瓦全した作品と玉砕した作品との区別がつかなくなる、膚浅な作品と深刻な作品との見分けがつかなくなる。本質的な価値批判を忘れて、外的な批評を事とするようになる。欠陥があるのは凡て劣って居り欠陥がないのは凡て優れてるという見方になる。一歩後れた完全よりも一歩進んだ欠陥の方が優れてるということを注意しなくなる。作家の方に就て云えば、偸安を事として努力を忘れてくる。周囲の狭い世界に満足して、視界を拡大せんとすることを努めない。地面の上に手を拱いて佇むばかりで、天空に伸び上ることをせず、地下深く掘ることをしなくなる。もっと具体的に云えば、手頃な材料をひねくりまわすばかりで、大きな問題にぶつかってゆくことを忘れ、或は一の問題を深く探り進むことを忘れてくる。
 芸術創作家は、野心が大なれば大なるほどいいのだ、理想が大なれば大なるほどいいのだ。凡ての方面に於て凡庸を主義[#「主義」に傍点]とする芸術家なるものを、私は想像出来ない。芸術家の野心や理想は、人間的な範囲をも越ゆるものでありたい。あわよくば、天空にまで昇りゆき、地の底にまで潜り込み、神の領域をも犯し、悪魔の領域をも犯さんとすること、それが彼の野心でありたい。こう云うのは、何も人間的なものを脱却するの謂ではない。立脚する地点は人間的なものでなければならない、最も凡庸なものであってもいい。ただ、其処に足をふみしめて、あくまでも大きくなり深くなることだ。
 所謂ヒューメーンを事とする傾向が嵩じてくると、遂には芸術家の野望が窒息しはしないかを私は恐れるのである。芸術家の野望が窒息して、文壇全体が停滞し腐爛しはしないかを、恐れるのである。芸術全体が、地面を蠢動する蚯蚓みたいになりはしないかを、恐れるのである。三つの拡がりを有する立体的な意味に於ける凡庸を主義とする傾向、所謂ヒューメーンを標的とする傾向、それを打ち倒すがいい。地面の上から理想を解放するがいい。偉大な光りと偉大な闇とを
前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング