る。もし勝っていたらどうしようというのか。反対なのは、戦争そのものに対してだ。
私は一人の畳職人を知っている。仕事熱心な壮年者で、老父を半ばいたわりつつ、二人で仲よく働いている。彼は戦争中、召集されて前線に赴いた。各地に転戦して、敵前上陸をすること十三回に及んだ。最後にはサイパンに廻され、所謂サイパンの玉砕前、負傷して千島に戻って来たのである。前線での経験の豊富なこと、誰にも引けは取らないだろう。然し彼は、戦争のことについては、もう語ろうとしないのである。――戦争のことは、もう話すのはいやですよ。戦争はもうたくさんだ、そういう気持でしてね。黙って、畳をいじって働いてるのが、一番楽しいですよ。
実際彼は、その仕事を心から楽しんでいるらしい。嘗ては彼も、頭の中は戦争のことで一杯だったろう。その脳中のジャングルを、いつしか彼は切り開き、清凉な風を吹き通らせ、仕事に喜びを見出したのである。戦争のことなどはもうたくさんだ。
周囲を顧れば、ジャングル頭がまだ随分と多い。政治家は政治家なりに、官僚は官僚なりに、学生は学生なりに、街のボスはボスなりに、右翼思想家は右翼思想家なりに、左翼思想家は左翼思想家なりに、何等かの意味でジャングル頭が多い。
ここにジャングル頭というのは、邪教教祖的頑迷さが石塊のように脳裡に蟠居してるものを指す。自分でそれを詰め込んだのもあろうし、他から詰め込まれたのもあろうが、その特質としては、自己の思慮の奴隷となり傀儡となって、決して他人の言説に耳を貸さないことだ。日本には現在大小合せて万に近い巷の教祖があり、その信者は百万に達するとか。そういう民度の段階だから、ジャングル頭の多いのも怪しむに足らない。
ただ、注意を要するのは、これを信念と混同してはいけない。信念とは言うまでもなく、前方に何等かの理想と光明とを掲げ、それへ向って公明な歩調で進んでゆき、途中の障害にたじろがないことだ。盲目でも聾でもなく、息吹きは明朗である。斯かるまことの信念の精神が、残念ながら日本には甚だ少い。それに反比例して、ジャングル頭が甚だ多い。これは盲目で聾だ。
メクラ、ツンボ、と言えば、非人情なことには、物怖じしない者の例として持ち出される。然し、物怖じしない代りには、何かに激発されれば、自らは兇器を振り廻すことがある。ジャングル頭も同様で、そこに、暴力肯定の温床がある。
日本は既にその憲法によって、戦争を放棄した。この崇高な理想を達成するには、先ず、如何なる場合にも武器を手に執らないとの決意が必要であるし、その前に先ず、暴力否定の決意が必要である。それ故に猶更、ジャングル頭の追放が要請される。
矮躯短脚の上に巨大な毛髪ジャングルを乗っけたお化け姿も、見っともないものではあるが、石をつめこんだような重いジャングル頭でふらふら歩いてる姿は、見っともない以上に危険である。だがそれも、駈足で歩いてる時代の副産物なのであろうか。
駈足といえば、ここでちょっと、御婦人への失礼のうめ合せをしておこう。女競輪を御覧なさい。あの軽快な自転車の上に、巨大なお尻をぐるぐるとゆさぶって、疾走している後姿だ。スマートな機械と偉大な肉体との対照は、グロテスクとも言えるが、見ようによっては、またなかなか趣き深いところもある。ゴム輪は一直線に小揺ぎもなく走っているのに、その上に乗っかった巨大なお尻は、ゆらゆらぐるぐる、餅をこね廻してるかのようだ。その両者が対照の妙を極めて、疾走し続けるのである。万事がこの調子で運行してゆけば、まず世の中は平和で安泰だと言えるであろうか。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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