ジャン・クリストフ
ロマン・ローラン
豊島与志雄訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)作者《さくしゃ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)千八百六十六|年《ねん》

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(例)※[#ローマ数字1、1−13−21]
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  前がき
『ジャン・クリストフ』の作者《さくしゃ》ロマン・ローランは、西暦《せいれき》千八百六十六|年《ねん》フランスに生《う》まれて、現在《げんざい》ではスウィスの山間《さんかん》に住《す》んでいます。純粋《じゅんすい》のフランス人《じん》の血《ち》すじをうけた人《ひと》で、するどい知力《ちりょく》をもっています。世界中《せかいじゅう》の人々《ひとびと》がみなお互《たがい》に愛《あい》しあい、そして力強《ちからづよ》く生《い》きてゆくこと、それが彼《かれ》の理想《りそう》であり、そして彼《かれ》はいつも平和《へいわ》と自由《じゆう》と民衆《みんしゅう》との味方《みかた》であります。
 これまでの彼《かれ》の仕事《しごと》は、いろいろな方面《ほうめん》にわたっています。第《だい》一に、五つの小説《しょうせつ》があり、そのなかで『ジャン・クリストフ』は、いちばん長《なが》いもので、そしていちばん有名《ゆうめい》です。ここに掲《かか》げたのはその中《うち》の一|節《せつ》です。第《だい》二に、十あまりの戯曲《ぎきょく》があり、そのなかで、フランス革命《かくめい》についてのものと信仰《しんこう》についてのものとが、重《おも》なものです。第《だい》三に、十ばかりの偉人《いじん》の伝記《でんき》があり、そのなかで、ベートーヴェンとミケランゼロとトルストイとの三つの伝記《でんき》は、もっとも有名《ゆうめい》です。第《だい》四に、音楽《おんがく》や文学《ぶんがく》や社会問題《しゃかいもんだい》やそのほかにいろいろなものについて多《おお》くの評論《ひょうろん》があります。
 彼《かれ》はいま、スウィスの田舎《いなか》に静《しず》かな生活《せいかつ》をしながら、仕事《しごと》をしつづけています。そして人間《にんげん》はどういう風《ふう》に生《い》きてゆくべきかということについて、考《かんが》えつづけています。(訳者)
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 クリストフがいる小さな町《まち》を、ある晩、流星《りゅうせい》のように通りすぎていったえらい音楽家《おんがくか》は、クリストフの精神《せいしん》にきっぱりした影響《えいきょう》を与えた。幼年時代《ようねんじだい》を通じて、その音楽家の面影《おもかげ》は生きた手本《てほん》となり、彼《かれ》はその上《うえ》に眼《め》をすえていた。わずか六歳の少年《しょうねん》たる彼が、自分もまた楽曲を作ってみようと決心《けっしん》したのは、この手本に基《もとづ》いてであった。だがほんとうのことをいえば、彼《かれ》はもうずいぶん前から、知《し》らず知《し》らずに作曲《さっきょく》していた。彼が作曲し始《はじ》めたのは、作曲していると自分《じぶん》で知るよりも前《まえ》のことだったのである。
 音楽家《おんがくか》の心にとっては、すべてが音楽《おんがく》である。ふるえ、ゆらぎ、はためくすべてのもの、照《て》りわたった夏《なつ》の日、風の夜、流《なが》れる光、星のきらめき、雨風《あめかぜ》、小鳥《ことり》の歌、虫の羽音《はおと》、樹々《きぎ》のそよぎ、好《この》ましい声《こえ》やいとわしい声、ふだん聞《き》きなれている、炉《ろ》の音《おと》、戸の音、夜の静《しず》けさのうちに動脈《どうみゃく》をふくらます血液《けつえき》の音、ありとあらゆるものが、みな音楽《おんがく》である。ただそれを聞きさえすればいいのだ。ありとあらゆるものが奏《かな》でるそういう音楽《おんがく》は、すべてクリストフのうちに鳴《な》りひびいていた。彼《かれ》が見《み》たり感《かん》じたりするあらゆるものは、みな音楽《おんがく》に変《か》わっていた。彼《かれ》はちょうど、そうぞうしい蜂《はち》の巣《す》のようだった。しかし誰《たれ》もそれに気づかなかった。彼自身《かれじしん》も気《き》づかなかった。
 どの子供《こども》でもするように、彼もたえず小声《こごえ》で歌《うた》っていた。どんな時《とき》でも、どういうことをしてる時でも、たとえば片足《かたあし》でとびながら往来《おうらい》を歩きまわっている時でも――祖父《そふ》の家の床《ゆか》にねころがり、両手《りょうて》で頭を抱《かか》えて書物《しょもつ》の挿絵《さしえ》に見入っている時でも――
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