クリストフは河を渡った。夜通し彼は流れに逆らって進んだ。強壮な四|肢《し》をもってる彼の身体は、巌《いわお》のごとく水の上に浮き出している。その左の肩には、か弱い重い小児[#「小児」に傍点]がのっている。聖クリストフは引き抜いてきた松の木に身をささえる。その木は撓《たわ》む。彼の背骨も撓む。彼が出発するのを見た人々は、けっして向こうに着けはしないと言った。そして長い間彼の後ろから、嘲《あざけ》りと笑いとを浴びせた。やがて夜となって、彼らは飽き果てた。もうクリストフは、岸に居残ってる人々の叫び声が届かないほど、遠くに来ている。急流の響きのうちに、小児[#「小児」に傍点]の静かな声が聞こえるばかりである。小児[#「小児」に傍点]はその小さな拳《こぶし》に、巨人クリストフの額の縮れ毛を一|房《ふさ》つかんで、「進め!」と繰り返している。――彼は背をかがめ、眼を前方の薄暗い岸に定めて、進んでゆく。向こう岸の懸崖《けんがい》は白み始める。
 突然、|御告の祈《アンジェリユス》の鐘が鳴る。そして多くの鐘の群れが、一時に躍《おど》りたって眼覚《めざ》める。今や新たなる曙《あけぼの》! そびえ立った黒い断崖《だんがい》の彼方《かなた》から、眼に見えぬ太陽が金色の空にのぼってくる。クリストフは倒れかかりながらも、ついに向こう岸に着く。そして彼は小児[#「小児」に傍点]に言う。
「さあ着いたぞ! お前は実に重かった。子供よ、いったいお前は何者だ?」
 すると小児[#「小児」に傍点]は言う。
「私は生まれかかってる一日です。」
[#地から2字上げ]――了――



底本:「ジャン・クリストフ(四)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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