《しわ》を伸ばすようなやや習癖めいた身振りをした。昔彼女[#「彼女」に傍点]はよくそういう身振りをしていた……。出て行くときに、彼女は頭をまっすぐにし、書物をもってる手を腹の上に組み合わせて、ゆっくり彼のそばを通った。彼女の薄暗い退屈げな眼の光は、ちょっとクリストフの眼の上にすえられた。しかしたがいに相手を見てとることができなかった。彼女はまっすぐな硬《こわ》ばった姿勢で、振り向きもせずに通り過ぎた。そして一瞬間後に、彼はちらとひらめいた記憶の中で、昔自分が接吻《せっぷん》したことのあるその口を、凍りついた微笑の下に、唇《くちびる》のある皺によって、突然見てとった……。彼は息がつけず膝が立たなかった。彼は考えた。
「主《しゅ》よ、私の愛した女が住んでいたのは、あの身体の中にであるのか。彼女はどこにいるのか。彼女はどこにいるのか。そして私自身も、私はどこにいるのか。彼女を愛した男はどこにいるのか。われわれから、またわれわれを食い荒らしたあの残忍な愛から、何が残っているか。――灰ばかりだ。火はどこにあるのか。」
 彼の神は答えた。
「予のうちにある。」
 そこで彼はまた眼をあけて、最後にも一度、戸口から日向《ひなた》へ出て行く彼女の姿を――人込みの中に――見てとった。

 彼はパリーにもどってから間もなく、旧敵レヴィー・クールと和解することになった。彼は邪悪な才能と悪意とを併用して、長い間クリストフを攻撃してきた。それから、成功の絶頂に達し、名誉に飽き、満腹し落ち着いたので、クリストフの優秀さを内々認めてやる気になった。そして握手を求めてきた。クリストフは攻撃にも好意にも、何一つ気づかぬふうをした。レヴィー・クールは根気がつきた。二人は同じ町に住んでいて、しばしば出会うことがあった。でもたがいに知ってる様子をしなかった。クリストフは通りすがりに、ちらと彼の上へ視線を投げながら、彼を眼にも止めないようなふうをした。相手を否定するその泰然たるやり方に、レヴィー・クールはいつも激昂《げっこう》した。
 レヴィー・クールは二十歳未満の娘を一人もっていた。きれいで、すっきりして、優雅で、小羊のような横顔、房々《ふさふさ》と縮れた金髪、婀娜《あだ》っぽいやさしい眼、ルイニ流の微笑をもっていた。二人はよくいっしょに散歩した。クリストフは彼らとリュクサンブールの園でしばしば行き会った。
前へ 次へ
全170ページ中156ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング