た。というのは、ラ・フーイエットお父《とっ》つあん(樽《たる》のお父つあん)はその綽名《あだな》にしごく相当していて、月に二、三回は酔っ払っていた。酔っ払うと、めちゃめちゃなことをしゃべり、笑い出し、様体ぶり、しまいにはいつも子供に当たり散らした。それも騒ぎのほうが大きくて、そうひどいことはしなかった。しかし子供はおずおずしていた。彼は病身のために人一倍物に感じやすかった。彼は早熟な知力をもっていたし、母親から粗野奔放な心を受け継いでいた。そして、祖父の乱暴と革命的宣言とに心|顛動《てんどう》していた。重い乗合馬車が通るとき店が揺れるのと同じように、彼のうちではすべてが外界の印象から反響を受けていた。彼の狂乱した想像の中には、鐘の振動のようになっていろんなものが交じり合っていた。日々の感覚、幼な心の大きな苦しみ、尚早な経験の痛ましい思い出、パリー臨時政府の物語、夜学や新聞小説や会合の演説などの断片、一家の者から受け継いだ混濁した急激な性的本能。すべてのものがいっしょになって、闇夜《やみよ》の中の沼みたいな奇怪な夢の世界をこしらえていて、そこから希望の眩《まぶ》しい光が迸《ほとばし》り出ていた。
古靴屋はときどきその弟子をオーレリーの飲食店へ連れていった。オリヴィエはそこで、この小さな佝僂《せむし》が燕《つばめ》のような声をもってるのに気づいた。彼は碌々《ろくろく》話も交えない労働者らの間にあって、人|馴《な》れない気圧《けお》されたような様子をしてる凸額《おでこ》の少年の病的な顔つきを、始終観察していた。人々から陽気な露骨なことを言いかけられて、少年の顔つきが無言のうちに引きつるのに、彼は居合わしたこともよくあった。彼が実際見たところによると、ある種の革命的宣言を聞いて、栗《くり》色のビロードのような少年の眼は、未来の幸福を夢みる恍惚《こうこつ》の色に輝き出した――幸福、それはいつか実現してくることがあっても、この少年の貧しい運命を大して変えはしないだろう。けれどとにかくそのときには、彼の眼つきはその醜い顔を輝かして、別人のような顔つきになるのだった。別嬪《べっぴん》のベルトでさえそれに心を打たれた。ある日彼女はそのことを彼に言って、だしぬけに彼の口へ接吻《せっぷん》した。少年はぞっとした。驚きのあまり蒼《あお》くなって、嫌《いや》な気持で飛び退《さが》った。が彼女はそれを見てとる隙《ひま》がなかった。彼女はもうジューシエとの諍《あらそ》いのほうへ心を取られていた。ただオリヴィエ一人がエマニュエルの当惑に気づいた。そしてその様子を見守った。エマニュエルは薄暗い所へ退きながら、両手を震わし、額を下げ、眼を伏せて、熱いいらだった横目でじろりと女のほうを見やっていた。オリヴィエは彼に近寄り、やさしく丁寧《ていねい》に話しかけ、彼を手馴《てな》ずけた……。人の尊敬を受けたことのない心は、やさしい態度に接していかに喜びを感ずることだろう! あたかも一滴の水のようなもので、乾《かわ》ききった地面はそれを貪《むさぼ》るように吸い込むのである。ただ数言だけで、一つの微笑《ほほえ》みだけで、エマニュエルはもう心の底で、自分をオリヴィエにささげつくし、またオリヴィエを自分のものだときめてしまった。その後、往来でオリヴィエに出会って、たがいに近所同士であることを知ると、自分の思い違いでなかったということを、運命の神秘な標《しるし》で示されたような気がした。彼は店の前をオリヴィエが通りかかるのを待ち受けて挨拶《あいさつ》をした。オリヴィエがうっかりしていて彼のほうを見ないようなことがあると、彼は気を悪くした。
オリヴィエがある日、フーイエット親父《おやじ》のところへ仕事を頼みに来ると、エマニュエルはうれしくてたまらなかった。注文の仕事ができ上がると、それをオリヴィエのもとに届けた。彼はオリヴィエの帰宅を窺《うかが》い、かならず会えるのを確かめてもっていった。オリヴィエは考えに沈んでいて、彼にあまり注意を向けず、金を払ったきりなんとも言わなかった。少年は左右を顧みながら待ち受けているようだった。そして残り惜しそうに出てゆきかけた。オリヴィエは温良な心で少年の心中を推察した。そして、平民のだれかと話すのにいつも窮屈さを覚えはしたけれど、笑顔をしながら強《し》いて話をしようとつとめた。ところがこんどは、ごく簡単な直截《ちょくせつ》な言葉を発することができた。彼は苦悩にたいする直覚力によって、自分と同様に人生から傷つけられた小鳥を、少年のうちに見てとった――(あまりに容易に見てとった)。その小鳥は、翼の下に頭をつっ込み、棲木《とまりぎ》の上に丸くなりながら、光の中に狂おしく飛び出すことを夢想してみずから慰めていた。本能的な信頼に似た一つの感情から、少年は彼に近づいていった。少しも叫び声を出さず、荒々しい言葉を少しも発せず、街頭の粗暴さからまったく離れたような、その黙々たる魂に、彼はひきつけられた。書物で、幾世紀もの魔法的な言葉で、いっぱいになってるその室から、ほとんど宗教的な尊敬の念を覚えさせられた。彼はオリヴィエの問いにたいして、傲慢《ごうまん》な粗野な気持をびくつかせながら、喜んで答えをした。しかし言い現わし方がうまくゆかなかった。オリヴィエはその朦朧《もうろう》とした言い渋りがちの魂を、注意深く解きほどいてやった。そして、世界の改造にたいする馬鹿げたしかも痛切な信仰を、彼はしだいに読みとることができた。その信仰は不可能事を夢みてるものであり人間を変えないものであるとわかってはいたが、彼はそれを笑いたくはなかった。キリスト教徒も不可能事を夢みたし、また人間を変えはしなかったのだ。ペリクレスの時代からファリエール氏の時代に至るまで、どこに精神上の進歩があるか?……しかしあらゆる信仰はみな美しい。他の信仰が薄らいでるおりには、現に輝き出してる信仰だけでも救うべきである。けっして信仰の多すぎるということはあり得ないだろう。オリヴィエは感動した好奇心で、少年の頭脳の中に燃えてる不安定な光をながめた。なんという不思議な頭脳ぞ!……しかしオリヴィエは、その思想の動きを一々見てとることができなかった。その思想は、持続した合理的な努力をすることができず、一足飛びに進んでゆくのであって、人から話をされても、そのあとについてゆかずに遠く後方に遅れながら、先刻言われた一言によって、どういうふうにしてか、ある一つの幻影を描き出してそれにしがみつき、つぎに突然話し手に追いつき、一飛びに話し手を追い越して、ごく平凡な一つの考えから、世俗的な用心深い一つの文句から、夢幻的な一世界を、勇壮な狂的な一つの信条[#「信条」に傍点]を、迸《ほとばし》り出させるのであった。うつらうつらしていてときどき急激に眼を覚ますその魂は、楽天主義を子供らしくまた力強く要求していた。芸術にせよ科学にせよ人から言われるすべてのことに、その魂は、自分の空想の願望を満足させるべき、楽しい劇的終局をつけ加えていた。
オリヴィエは好奇心のために、日曜日には少年へ何かを読んできかした。現実的な家庭的な物語が彼の興味をひくだろうと思っていた。そしてトルストイの幼年時代の思い出[#「幼年時代の思い出」に傍点]を読んできかした。が少年はそれに心を打たれはしなかった。彼は言った。
「ああ、そのとおりだ、そんなこたあ知ってますよ。」
そして彼は、現実的な事柄を書くのにそんなに骨折るわけが、会得できなかった。
「そりゃあ子供です、あたりまえの子供ですよ。」と彼は軽蔑《けいべつ》したように言った。
彼はまた歴史にもあまり興味を覚えなかった。そして科学には退屈した。それは妖精《ようせい》物語にたいする無味乾燥な序文のように思われた。人間の用に供せられた眼に見えない力であって、恐ろしくはあるがすっかり圧倒されてる精霊なのだった。そんなに多くの説明がなんの役にたつものか。何かを見出したときには、どうしてそれを見出したかを言う必要はない。何を見出したかと言えばよい。思想の解剖は中流人の贅沢《ぜいたく》である。民衆の魂にとって必要なものは、総合である。善かれ悪しかれでき上がってる、否むしろ善くよりも悪くでき上がってる、しかも実行へ進まんとする、既成の観念である。電気を帯びた人生の粗野な現実である。エマニュエルが理解し得たあらゆる文学のうちで、もっとも彼の心を動したものは、ユーゴーの叙事詩的な哀感と、革命派の演説者たちの煤《すす》色の措辞《そじ》とであった。彼はその演説者たちをよく理解してはいなかった。また彼ら自身も、ユーゴーと同様に、いつも自分自身を理解してるわけではなかった。世界は彼にとっては、彼らにとってもそうであるが、条理もしくは事実のりっぱな連絡がある集合体ではなくて、影に浸され光に震えている無窮の空間であって、その闇夜の中には日光に輝いた大きな羽搏《はばた》きが通り過ぎてるのだった。オリヴィエは彼に中流人的な論理を教え込もうとしたが駄目《だめ》だった。退屈してる反発的なその魂は、いつもオリヴィエの手から逃げ出していた。そして、恋せる女が眼をつぶって身を任せるのと同様に、幻惑せる感覚の朦朧《もうろう》たる擾乱《じょうらん》の境地に楽しんでいた。
オリヴィエは、この少年のうちに感ぜらるる自分にきわめて近いもの――孤独、傲慢《ごうまん》な気弱さ、理想家的熱烈さ――から、また、自分にきわめて異なったもの――不平衡な精神、盲目的な狂的な願望、普通の道徳が規定してるような善悪の観念をもたない肉感的な野性――から、同時にひきつけられかつ驚かされた。彼はその野性の一部を瞥見《べっけん》してるばかりだった。少年の心の中に唸《うな》ってる濁った情熱の世界には、けっして気づかなかった。われわれ中流人は伝統的遺伝のためにあまりに賢くなっている。自分自身のうちを内省することさえなし得ないでいる。正直な男子がいだく夢想やあるいは貞節な女の体内に起こる欲望などを、その百分の一でも口にするならば、人は醜怪だと叫び出すかもしれない。それらの怪物はそっとしておくがよい。鉄格子で閉じこめておくがよい。しかしそれが存在してるということを知っていなければならないし、新しい魂のうちでは今にも飛び出そうとしてるということを知っていなければならない。――人が皆|挙《こぞ》って邪悪だと見なすようなあらゆる淫猥《いんわい》な欲望を、この少年はもっていた。それが突風のように不意にさっと起こってきて、彼をつかみ取った。それは彼が醜くて孤立してるだけになおさら熱烈だった。オリヴィエはそのことを少しも知らなかった。オリヴィエの前に出るとエマニュエルは恥ずかしかった。その平安の感染を受けた。そういう生活の実例は彼を馴養《じゅんよう》していった。彼はオリヴィエにたいして激しい情愛を感じていた。そして彼の抑圧された情熱は、騒々しい夢想となって跳《は》ね上がった。人類の幸福、全社会の親睦《しんぼく》、科学の奇跡、夢幻的な空中飛行、幼稚な野蛮な詩など――勲功と愚直と淫逸《いんいつ》と犠牲とにみちた勇ましい世界であって、そこで彼の酩酊《めいてい》した意志は彷徨《ほうこう》や熱のうちに揺らめいていた。
彼はそれにふける隙《ひま》を多くもたなかった。ことに祖父の店にいるときはそうだった。祖父は朝から晩まで口笛を吹いたり靴底をたたいたりしゃべったりして、ちょっとの間も静かにしていなかった。しかしいつでも夢想の余地はあるものである。つっ立って眼を開きながら生活の一瞬のうちにも、いかに長時日の夢を人はなし得ることだろう!――それに労働者の仕事は、間歇《かんけつ》的な考えにかなりよく調和するものである。労働者の精神は意志の努力なしには、緻密《ちみつ》な理論のやや長い連鎖をたどるに困難であろう。もしそれをなし得ても、所々に鎖の環《わ》が見落とされる。しかし律動的な運動の合い間合い間には、種々の観念がつみ重なり、種々の幻像が浮かんでくる。身体の「規則的な動作は、鉄工の※[#「韋+備のつく
前へ
次へ
全37ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング