どって来ると、追憶とともに室に閉じこもって、子供やクリストフへ会いに行くほかは外出しなかった。彼にとってその住居は家庭ではなかった。過去の面影が固着してる暗室だった。室が暗くて無装飾であればあるほど、ますますはっきりと映像が浮き出してくるのだった。彼は階段ですれ違う人々の顔にもほとんど注意を向けなかった。けれども知らず知らずのうちに、ある幾つかの顔が彼の頭に残っていた。ある種の精神の人々は、事物を過ぎ去ったあとにしかよく見ようとしない。しかし過ぎ去ったあとでは、何にも彼らの眼をのがれるものはなく、ごく些細《ささい》な事物までが深く刻みつけられている。オリヴィエもそういう種類の男だった。彼は生きてる人々の影でいっぱいになっていた。一つの感動に打たれると、それらの影が浮き上がってきた。するとオリヴィエはびっくりし、知り合いでもなかったそれらの影を認め知り、時としては手を差し出してとらえようとした……がもう時期遅れだった。
ある日彼は、家から出かけるとき、門の前に人だかりがしてるのを見た。そのまん中で門番の女がしゃべりたてていた。彼はあまり好奇心を覚えなかったので、訳を尋ねもしないで通り過ぎようとした。しかし門番の女は、一人でも多く聞き手を集めたがって、彼を呼び止め、この気の毒なルーセル一家にどんなことが起こったか知ってるかと尋ねた。オリヴィエは「気の毒なルーセル一家」が何物であるかをも知らなかった。そして彼は丁寧《ていねい》な冷淡さで耳を貸した。父と母と五人の子供との労働者一家が、この家の中で貧困のあまり自殺をしたところだ、ということを知ったとき、彼は他の人々と同様に立ち止まって、家の壁をながめながら、あかずに話を繰り返してる女の言葉に耳を傾けた。彼女が話してゆくに従って、彼のうちには種々の思い出がよみがえってきて、その人たちに会ったことがあるのに気づいた。彼は、二、三の質問をしてみた……。まさしく彼らを知ってたのである。主人――(彼はその音のする呼吸を階段でよく聞いたのだった)――はパン屋の職人で、蒼《あお》ざめた顔色をし、竈《かまど》の熱気に貧血し、頬《ほお》はくぼみ、髯《ひげ》もよく剃《そ》っていなかった。冬の初め肺炎にかかった。すっかり回復しないうちにまた働き出した。突然病気が再発した。三週間ばかり前からは、仕事もなければ体力もなかった。上さんは引きつづいて妊
前へ
次へ
全184ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング