こを通り越した。しかし数歩行ってから立ち止まった。その男の眼に見覚えがあった。彼は振り返った。男は身動きもしないで、前方の一物をじっと見つめつづけていた。しかし連れの男はクリストフをながめていた。クリストフは手|真似《まね》をした。彼はやって来た。
「あれはどういう人ですか。」とクリストフは尋ねた。
「あの療養院の入院患者です。」と男は建物をさしながら言った。
「私はあの人を知ってるような気がしますが。」とクリストフは言った。
「そうかもしれません。」と男は言った。「ドイツでごく名高い作家ですから。」
 クリストフは名前を言ってみた。まさしくその名前だった。――クリストフは昔マンハイムの雑誌に筆を執っていたころ、彼に会ったことがあった。当時二人は敵だった。クリストフはほんの出たてだったし、向こうはすでに名高くなっていた。自信の強いしっかりした男で、自分以外のものはすべてを軽蔑《けいべつ》していて、一般の凡庸な作品を現実的な肉感的な芸術で風靡《ふうび》してる名高い小説家だった。彼を嫌《きら》っていたクリストフも、その唯物的な真摯《しんし》な偏狭な芸術の完璧《かんぺき》を嘆賞せざるを得なかった。
「一年前からああなったのです。」と付添人は言った。「療養して癒《なお》ったようでしたから、家に帰ることになりました。それからまた始まったのです。ある晩、窓から飛び降りてしまいました。ここへ来た当座は、あばれたり怒鳴ったりしていました。今はもうたいへんおとなしくなっています。ご覧のとおりじっとすわって日を送っています。」
「何を見てるんでしょう?」とクリストフは言った。
 彼は腰掛に近寄っていった。敗残者の蒼《あお》ざめた顔を、眼の上にたれ下がって一方はほとんどふさがってる太い眼瞼《まぶた》を、気の毒そうにうちながめた。狂人はそこにクリストフがいることも知らないらしかった。クリストフはその名前を呼びかけて、片手をとった――柔軟な湿っぽい手で、死物のようにぐったりしていた。彼はその手を両手に握っているだけの元気がなかった。狂人はちょっと彼のほうへ転倒した眼をあげたが、またぼんやりした微笑を浮かべながら前方をながめ始めた。クリストフは尋ねた。
「何を見てるのですか。」
 狂人はじっとしたまま低い声で言った。
「待ってるのだ。」
「何を?」
「復活[#「復活」に傍点]を。」
 クリスト
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