る、と彼は考えた。
彼は夕食のあとに、ちょっと逃げ出して、アンナの室へ上がって行きたかった。しかしベービは彼のそばを離れなかった。平素彼女は早めに仕事を終えるのだったが、その晩はいつまでも台所の後片付けを終えなかった。そしてクリストフがもう彼女からのがれたと思ってると、彼女はアンナの室に通じる廊下に、戸棚《とだな》をすえつけることを考え出した。クリストフは彼女がどっしりと腰掛に落ち着いてるのを見た。一晩じゅう動きそうもないのを悟った。彼女を積み重ねられた皿《さら》といっしょに投げ出したい気が、むらむらと起こってきて仕方なかった。しかし彼は我慢をした。奥様の様子はどうであるか、挨拶《あいさつ》をしに行くことはできまいか、それを見に行ってくれと願った。ベービはやって行き、もどってきて、意地悪い喜ばしさで彼を見守りながら、奥様の気分はよいほうであるが、眠りたいからだれも来てくれるなとのことだった、と言った。クリストフはむっといらだって、読書をしてみたが、それもできないで、自分の室に上がっていった。ベービは燈火が消えるまで窺《うかが》っていて、寝ずの番をしてやろうと誓いながら自分も室に上がっていった。家じゅうの物音が聞こえるように、扉《とびら》を半ば開いておくだけの注意までした。しかし悲しいかな彼女は、寝床にはいるとすぐに眠った。しかもその眠りは、夜が明けない限りは、雷が鳴ろうとまたいかに好奇心が強かろうと、なかなか覚《さ》めそうもないほど深いものだった。その眠りはだれにも知れずにはいなかった。鼾《いびき》の音が階下までも響いていた。
クリストフはその耳|馴《な》れた音を聞くと、アンナのところへやって行った。彼女に話をしなければならなかった。彼は一種の不安に駆られていた。扉のところまでいってその把手《とって》を回した。扉は締めきってあった。彼は静かにたたいた。返辞がなかった。彼は錠前に口を押し当てて、低い声で頼み、つぎにはしつこく頼んだ。なんの動きもなければ、なんの音もしなかった。アンナは眠ってるのだといくら考えても、ある心痛にとらえられた、そして中の様子を聞き取ろうといたずらにつとめながら、扉《とびら》に頬《ほお》をつけていると、敷居のところから漏れてくるらしいある臭気に打たれた。彼は身をかがめてそれを嗅《か》ぎ分けた。ガスの臭《にお》いだった。彼の血はぞっと凍った。
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