室の中に、おずおずと鍵《かぎ》をかけて閉じこもった。――しかしなんとしても力及ばなかった。夜中に、彼女は素足のまま逃げ出してきて、彼の室の扉《とびら》をたたいた。彼は扉を開いた。彼女は寝床の中にはいってきた。彼のそばに冷たくなって横たわった。声低く泣き出した。彼はその涙が自分の頬の上に流れるのを感じた。彼女は気を静めようとつとめた。しかし苦悩に打ち負けた。クリストフの首に唇《くちびる》を押しあててすすり泣いた。その苦悶《くもん》に惑乱されて彼は自分の苦悶を忘れた。やさしい慰めの言葉をかけて彼女を落ち着かせようとした。彼女は嘆いた。
「私は悲しい。死んでいたほうがよかった……。」
彼女の訴えは彼の心をつき刺した。彼は彼女を抱擁しようとした。彼女はそれを押しのけた。
「私はあなたが嫌《きら》いです!……なぜあなたはいらしたんです?」
彼女は彼の腕から脱して、寝台の向こう側に身を投げ出した。寝台は狭かった。二人はたがいに避けようとしたが、やはり触れ合った。彼女は彼のほうへ背中を向けて、怒りと悩みに震えていた。死ぬほど彼を憎んでいた。彼は圧倒されて黙っていた。沈黙のうちに、彼女は彼の押え止めてる息を聞きとった。彼女はにわかに向き返って、彼の首を両腕で抱いた。
「ああクリストフ!」と彼女は言った、「私あなたを苦しまして……。」
初めて彼は、彼女からそういう憐《あわ》れみの声を聞いたのだった。
「許してください。」と彼女は言った。
彼は言った。
「おたがいに許し合いましょう。」
彼女はもう息がつけないかのように身を起こした。寝床の中にすわり、がっかりして背をかがめて、彼女は言った。
「私はもう駄目《だめ》……それが神の心だから。私は神に見捨てられたのです……。神に反対して私に何ができましょう?」
彼女は長くそのままでいた。それからまた横になって、もう少しも動かなかった。仄《ほの》かな明るみが黎明《れいめい》を告げた。薄ら明かりの中に、彼は自分の顔に接してる痛ましい顔を見てとった。
彼はささやいた。
「夜が明けた。」
彼女は身動きもしなかった。
彼は言った。
「よろしい、構やしない。」
彼女は眼を開き、たまらなく懶《ものう》い表情で床から出た。寝台の縁に腰かけて、床《ゆか》板をながめた。
何の色合いもない声で言った。
「私昨夜あの人を殺そうかと思った。」
前へ
次へ
全184ページ中138ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング