言うべきことも頭から消えてしまった。それでも彼は努力して、二人の行ないの卑劣さを言い出し始めた。彼女はそれを知るや否や、彼の口を手で激しくふさいだ。眉根《まゆね》をひそめ、唇《くちびる》をきっと結び、不快な表情をして、彼を押しのけた。彼は言いつづけた。彼女はもってた仕事を下に投げ捨て、扉《とびら》を開いて、出て行こうとした。彼はその両手をとらえ、扉を閉ざした。犯した罪の観念を彼女が頭から消し得るのは仕合わせだ、と苦々しげに言ってやった。彼女は激しく身をもがき、憤然として叫んだ。
「お黙んなさい!……卑怯者《ひきょうもの》、あなたには、私の苦しんでることがわからないんですか。……あなたから言ってもらいたくありません。打っちゃっといてください!」
彼女の顔はくぼんでいた。眼つきは害された獣のそれのように、恨みと恐れとを含んでいた。もしできるなら彼を殺したいような眼だった。――彼は彼女を放した。彼女は室の他の隅へ逃げていった。彼はそれを追っかけたくなかった。悲痛と恐怖とに心がしめつけられていた。ブラウンが帰って来た。二人は茫然《ぼうぜん》と彼をながめた。自分の悩み以外には、何物も二人にとっては存在しなかった。
クリストフは外に出た。ブラウンとアンナとは食卓についた。食事の最中に、ブラウンはにわかに立ち上がって窓を開けた。アンナが気絶したのだった。
クリストフは旅行を口実にして、その町から二週間姿を隠した。アンナは一週間の間、食事の時間を除いては、居室に閉じこもってばかりいた。彼女はまた自分の良心や習慣にとらえられ、脱したとみずから思っていたがけっして脱せられるものではない、過去の生活にまたとらえられた。いくら眼をふさいでも駄目《だめ》だった。日ごとに心痛が増してきて、心の奥深くはいり込んで来、ついにはそこに腰をすえてしまった。つぎの日曜日には、彼女はなお寺院へ行くのを断わった。しかしそのつぎの日曜日には、寺院へ出かけて、それからもうけっして欠かさなかった。彼女は服従したのではなかったが、打ち負かされてしまった。神は敵であった――のがれることのできない敵だった。彼女は神のもとへ、服従を強《し》いられた奴隷のような暗黙の憤りをいだいておもむいた。彼女の顔にはその礼拝の間、敵意ある冷淡さしか見えなかった。しかし魂の奥底では、彼女の宗教的生活はすべて、主《しゅ》にたいする
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