少し遠くには、鼻声めいたクラリネットの音やコルネットの音が聞こえていた。飲食店と墓地との間の村の広場では、人々が踊っていた。一つのテーブルに乗って四人の音楽家が演奏していた。アンナとクリストフとは飲食店の前に腰をおろして、踊ってる人たちをながめた。各組がたがいにぶつかり合って大声で悪口を言い合っていた。娘たちはただ叫ぶのが面白くて叫びたてていた。酒を飲んでる人たちは拳固でテーブルをたたいて拍子を取っていた。他のときだったら、その鈍重な喜びの光景をアンナは不快がったに違いない。がその夕、彼女はかえって面白がった。彼女は帽子をぬいで生き生きとした顔つきでながめた。クリストフはその音楽と音楽家らとの滑稽《こっけい》な荘重さに放笑《ふきだ》した。彼はポケットの中を探って鉛筆を取り出し、飲食店の勘定紙の裏に、棒や点を引き始めて、踊りの曲を書きしるした。紙は間もなくいっぱいになった。彼はなお幾枚も紙をもらって、最初の一枚と同様に、気短かな無器用な太い筆跡でぬりつぶした。アンナは彼の頬《ほお》に自分の頬を寄せて、肩越しに読み取りながら小声で歌った。そして楽句の終わりを推察しようとつとめ、うまくあたったときや、意外の機知で推測がそらされるときには、はたと手をたたいた。クリストフは書き終えると、それを音楽家どものところへもっていった。彼らは己が仕事に通じてるりっぱなシュワーベン人だった。つまずかずに演奏していった。その節《ふし》は感傷的なかつ道化《どうけ》た気分のもので、あたかも哄笑《こうしょう》で句読づけられたかのようなごつごつした律動《リズム》をもっていた。その強烈な滑稽味にはとても抵抗できなかった。足が自然と踊り出してくるのだった。アンナはロンドの中に飛び込み、手当たりしだいに二つの手をとらえ、気でも狂ったように踊り回った。鼈甲《べっこう》の留め針が髪からぬけ落ちた。房々とした髪がほどけて頬にたれ下がった。クリストフは彼女から眼を放さなかった。そしてその強健な美しい動物に感嘆した。それは今まで、無慈悲な規律に縛られて、沈黙と不動とを守っていたのである。彼には彼女が、今までだれも気づかなかったような女に見えてき、力に酔った酒神|巫女《みこ》とも言えるその仮面に、ちょうどふさわしい女に見えてきた。彼女は彼を呼んだ。彼は彼女に駆け寄ってとらえた。二人は踊りに踊って、踊り回りながら壁に
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