分けられるものはただ、移り動く大きな波紋、無数の細流や奔流や渦《うず》巻ばかりで、それが形を現わしたり消えたりしていた。それはあたかも、幻惑してる思想の中における渾沌《こんとん》たる物象に似ていた。それはいつも描き出され、またいつも融《と》け合ってしまう。その薄ら明かりの夢の上を、一人の人影も見えない幽鬼めいた渡し舟が、柩《ひつぎ》のようにすべり動いていた。夜の闇《やみ》は濃くなっていった。河は青銅のようになった。岸の燈火が、河の漆黒な鎧《よろい》を輝《て》らして、暗い閃《ひら》めきを放たした。ガス燈の銅色の反映、電気燈の月色の反映、人家の窓ガラス越しの蝋燭《ろうそく》の血色の反映。そして河の囁《ささや》きが闇にいっぱいこもっていた。永遠の水音、単調なために海の音よりいっそう物悲しい音……。
 クリストフは幾時間も、その死滅と倦怠《けんたい》との歌に聞きふけった。それと別れることがなかなかできなかった。それから、まん中が擦《す》りへってる赤い石段の険しい小路を、家のほうへ上っていった。身体も魂もがっかりしていた。壁にはめ込まれてる鉄の手摺《てすり》が、ずっと上のほう、闇に包まれてる教会堂の前の寂然たる広場にある街燈に、輝らされて光ってるのに、つかまりながら上っていった……。
 人間はなんのために生きてるのか、彼にはもうわからなかった。今まで目撃してきた闘争を思い起こすようなときには、肉体に釘《くぎ》付けされた信仰をもってるこの人類を、苦々しげに驚嘆するのだった。相反した観念がつぎつぎに起こり、相反した行動がつぎつぎに起こっていた――民主主義と貴族主義、社会主義と個人主義、浪漫主義《ロマンチスム》と古典主義《クラシチスム》、進歩と伝統――そして永遠にそうだった。新しい各時代は、十年足らずのうちに燃えつきるにもかかわらず、自分だけが絶頂に達したものだと同じ意気込みで信じていて、石を投じては先人を打倒していた。そして騒ぎたて、叫びたて、権勢と光栄とを掌握し、こんどはみずから新来者の石の下に打ち倒されて、滅び失せてしまっていた。今やだれの番であるか?……
 クリストフにとっては、音楽の製作ももう避難所ではなかった。それは間歇《かんけつ》的で乱雑で目的がなかった。書くことをか? だれのために書くのか? 人間のためにか? しかし彼は激しい人間|嫌《ぎら》いの危機にさしかかってい
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