で隔てられてるのみだった……。それらの苦悩のそばに暮らしてきたことを考えてもみると!
 彼はクリストフに会いに行った。胸がしめつけられるような心地だった。多くの人々が自分のより何倍もひどい不幸を苦しんでおり、しかも救われることができる場合にあるのに、自分のようにいたずらな愛の未練にとらわれてるのは、いかに奇怪なことであるかと、彼は考えた。彼の感動は深いものだった。すぐに他の者へも伝わることができた。クリストフもやはり心を動かされた。オリヴィエの話を聞いて彼は、児戯に類した慰みをやってる利己主義者だと自分を見なして、書いたばかりの楽譜を引き裂いた……。しかしそのあとで、引き裂いた紙片を拾い集めた。彼はあまりに自分の音楽に心ひかれていた。そして、芸術上の作品を一つ減らしたとて幸福が一つ増すものでないと、本能的に考えた。その種の貧困の悲劇は、彼にとっては珍しいものではなかった。幼年のころから彼は自分で、そういう深淵《しんえん》の縁を歩くことに慣れていたし、それに落ち込みもしなかった。そして現在では、みずから力の充実した感じがしていたし、いかなる苦しみのためにもせよ奮闘を断念するということは、考え得られなかったので、自殺にたいしては峻厳《しゅんげん》な考えをもってさえいた。苦しみと闘い、それこそもっとも普通のことではないか。それこそ世界の背骨である。
 オリヴィエも同様な試練を経て来ていた。しかし彼はかつて自分のためにも他人のためにも、それに忍従することができなかった。大事なアントアネットの一生を滅ぼしたあの困窮について、嫌忌《けんき》の念をいだいていた。ジャックリーヌと結婚して後、富と愛とのために柔弱になされたとき、彼は、姉と自分とが昔、翌日の糧《かて》を稼《かせ》ぎ出さんがために覚束《おぼつか》ない努力をしていた、あの悲しい年月の思い出を、急いで遠ざけたのだった。それらの遠い思い出が、擁護すべき恋愛的利己心のもはやなくなった今、ふたたび浮かび出してきた。苦しみの前から逃げるどころか、反対に彼は苦しみを捜しにかかった。それを見出すには遠く進むの要はなかった。彼のような精神状態にあっては、至る所にそれが見てとられた。それは世間に満ちていた。世間、この大なる病院……。多くの悩み、苦しみ。生きながら腐敗しあえいでいる、傷ついた肉体の苦痛。苦悶《くもん》にさいなまれてる心の、黙々
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