何物も彼を促すものがなかった。彼はそのペンを夢想にふけらせ、あちらこちらへ彷徨《ほうこう》し、道に迷ってしまった。おのが生の道筋を気長に孜々《しし》として掘っている同類の人々とも、接触することがなくなった。勝手は悪いがそれでも面白くなくもない異なった世界へ、陥ってしまった。気の弱い柔和な好奇《ものずき》な彼は、優雅は欠けていないが堅固さが欠けてるその世界を、楽しげに観察してみた。そしてしだいにその色に染められてることにはみずから気づかなかった。彼の信念はもう以前ほど確固たるものではなかった。
その変化は、彼においてはジャックリーヌにおけるほど急速ではなかった。女は一挙に全然変わり得るという恐るべき天性をもっている。一身のうちに瞬間に起こるそれらの死滅や更生は、その一身を愛する人々をして駭然《がいぜん》たらしむるものがある。けれども、意志の制御を受けない生気に満ちた者にとっては、明日はもはや今日と同じでないことも、自然の事柄であるに違いない。それは流るる水である。愛する者はその流れに従ってゆくか、あるいはみずから河となってそれをおのが流れの中に取り入れるか、いずれかの道しかない。そして
前へ
次へ
全339ページ中132ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング