A精神でも心でもない。それは生命なんだ。生命が逃げ去りかけてるんだ。」
「しかたないさ。生命がもどってくるのを待つよりほかはない。」
「生命がもどってくるのを欲しなければいけない。意欲する[#「意欲する」に傍点]ことが必要なのだ。そしてそのためにはまず、自分の家に清い空気をはいらせなければいけない。家から外に出たくないときには、少なくとも家を健全にしておかなければいけない。君たちは市場《いちば》の悪い空気で家を毒されるままにしている。君たちの芸術と思想とは三分の二以上悪変させられてる。そして君たちは意気|沮喪《そそう》のあまり、もうそれを憤ろうともしないし、ほとんど驚こうともしない。気おくれがしてるそれらのばかな善人らのうちには、自分らのほうが誤りで欺瞞《ぎまん》者どものほうが正当だと、ついに思い込んでしまってる者さえある。何物にも欺かれていないと公言してる君のイソップ[#「イソップ」に傍点]誌の連中のうちにも、愛してもいない芸術を愛してると思い込んでる憐《あわ》れな青年らに、僕は出会った。彼らはうれしくもないのにただ順従の念から酔っ払ってる。そしてその虚偽のうちに倦怠《けんたい》しきっている。」
クリストフは、胎《はら》のすわらない連中の中を、あたかも眠ってる樹木を揺り起こす風のように通りすぎていった。彼は自分の考え方を彼らに教え込もうとはしなかった。自分で考えるだけの元気を彼らに吹き込んでやった。彼はこう言っていた。
「君たちはあまりに謙譲だ。神経衰弱的疑惑こそ大敵なんだ。人は寛容で人間的であり得るしあるべきである。しかし、善であり真であると信じてる事柄を疑ってはいけない。そして信じてる事柄を支持しなければいけない。われわれの力がどのくらいのものであろうと、われわれは譲歩してはならない。この世においては最小のものも最大のものと同等に一つの義務をもっている。そして最小のものもまた――(みずからよく知っていないことであるが)――一つの力をもっているのだ。君たちだけの反抗を取るに足らぬものだと思ってはいけない。強健で自己を肯定し得る本心は一つの威力である。君たちが近年一度ならず見てきたとおりに、国家と世論とは一人のりっぱな男の判断を重んじなければならなかったではないか。しかもその男の武器といっては、公然と執拗《しつよう》に肯定されたその精神力のみだったのだ……。
前へ
次へ
全167ページ中128ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング