自分の旅行中二人は何をしていたかと尋ねた。しかし彼らの答えに耳を貸しはしないで、ただその声の響きだけを聞いていた。そして彼らの上に眼をすえてはいたけれど、眸《ひとみ》は他に向いていた。オリヴィエはそれを感じた。他愛ない話の中途で口をつぐんで、言いつづける気がしなかった。しかしアントアネットの方は、ちょっと気まずい思いをした後に、快活な気分の方が強くなった。愉快な鵲《かささぎ》のようにしゃべりながら、父の手に自分の手を重ねたり、父の腕にさわったりして、話してることをよく聞かせようとした。ジャンナン氏は黙っていた。アントアネットからオリヴィエの方へ眼を移した。その額の皺はますます深くなった。娘が話してる最中に、彼はもう堪えかねて、食卓から立ち上がり、感動を隠すために窓の方へ行った。子供たちは胸布《ナプキン》をたたんで、同じく立ち上がった。ジャンナン夫人は彼らを庭へ遊ばせにやった。彼らが金切声をたてて小径《こみち》で追っかけ合ってるのが、間もなく聞こえてきた。ジャンナン夫人は夫をながめた。夫はその方へ背中を向けていた。彼女は何か片付けるふうで食卓を回った。そして突然彼女は彼に近寄って、召使どもに聞かれはすまいかという懸念《けねん》から、また自分自身の心痛のあまりに、声をひそめて言った。
「あなた、どうなすったんです? どうかなすったのでしょう……。何か隠していらっしゃるのでしょう……。災難でも起こりましたか。苦しいことでもおありですか。」
しかし彼は、そのときもなお彼女を避けて、いらだたしげに肩をそびやかし、きつい調子で言った。
「いや、そんなことはないんだ。構わないでおいてくれ。」
彼女はむっとして遠のいた。どんなことが夫に起ころうともう気をもんでやるものかと、盲目な憤りのうちにみずから去った。
ジャンナン氏は庭へ降りていった。アントアネットは悪戯《いたずら》をしつづけて、弟をいじめては駆けさしていた。しかし弟はもう遊びたくないと突然言い出した。そして父から数歩離れた所で、覧台《テラース》の墻壁《しょうへき》によりかかった。アントアネットはなお彼をからかおうとした。しかし彼は口をとがらしながらそれを押しのけた。すると彼女は何か悪口を言った。そしてもう面白いことがなくなったので、家にはいってピアノの前にすわった。
ジャンナン氏とオリヴィエと二人きりになった。
「坊や、どうしたんだい? なぜもう遊ぼうとしないの?」と父はやさしく尋ねた。
「くたびれちゃったの、お父《とう》さん。」
「そう。では二人でちょっと腰を掛けようよ。」
彼らは腰掛にすわった。九月の美しい夜だった。空は澄み切って薄暗かった。ペチュニアの甘っぽい香《かお》りが、覧台《テラース》の墻《かき》の下に眠ってる暗い運河の、白けたやや腐れっぽい匂《にお》いに交っていた。夕《ゆうべ》の蝶《ちょう》が、金色の大きな天蛾《てんが》が、小さな糸車のような羽音をたてて花のまわりを飛んでいた。運河の向こう側の家の、戸の前にすわっている人々の静かな声が、静けさのうちに響いていた。家の中ではアントアネットが、装飾用のイタリー抒情歌《カヴァチーナ》をピアノでひいていた。ジャンナン氏はオリヴィエの手を執っていた。彼は煙草《たばこ》を吹かした。オリヴィエは、しだいに父の顔だちをぼやけさしてゆく暗がりの中に、パイプの小さな火を見守った。その火は急に明るくなり、ぱっと吐かれる煙のために消え、また明るくなり、しまいにすっかり消えてしまった。二人は少しも話をしなかった。オリヴィエは二、三の星の名を尋ねた。ジャンナン氏は田舎《いなか》のたいていの中流人士と同じく、自然界の事物についてはかなり無知だったので、尋ねられた星の名は一つも知らなかった。ただ、だれでも知ってる大きな星座だけを知っていた。子供が尋ねてるのはそれらの星座のことだと思ってるふうをして、その名前を聞かしてやった。オリヴィエは問い返さなかった。それらの神秘な美しい名前を、耳にきいたり小声でくり返したりするのが、いつもうれしかった。そのうえ彼は知識を求めることよりも、むしろ本能的に父に近づきたがっていた。二人は黙った。オリヴィエは腰掛の背に頭をもたせ、口をうち開いて、星をながめた。そしてうっとりとなった。父の手の温《あたた》かみがしみじみと感ぜられた。とにわかにその手が震えだした。オリヴィエは変だと思って、にこやかな眠たげな声で言った。
「おや、お父《とう》さんの手はたいへん震えてるよ。」
ジャンナン氏は手を引っ込めた。
オリヴィエはその小さな頭を一人で働かしつづけていたが、ややあって言った。
「お父さんもくたびれたの?」
「ああ、坊や。」
子供はやさしい声で言った。
「そんなに疲れちゃいけないよ、お父《とう》さん。」
ジャンナ
前へ
次へ
全50ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング