彼は周囲の煩雑な都会を時々うち忘れて、無限の時間のうちに逃げ込む術を知っていた。空の深みにかかってる死に凍えた月や、白い霧の中に回転してる太陽の円《まる》い面を、騒々しい街路の上方にながめるだけで、町の喧騒《けんそう》は消えてしまい、パリー全市は無際限な空虚のうちに捜してしまって、その全生活が、昔の、遠い遠い以前の……数世紀以前の……生活の幻影のようにしか思えなかった。辛うじて文明の皮をかぶってる自然の大なる野蛮な生活の、普通の人の眼にはつかないほどのわずかな徴《しるし》を見ただけで、その自然の生活全部が彼の眼に映じてきた。舗石の間に伸び出てる草、乾燥した大通りの空気も土も不足してる所に、鉄板の幹|覆《おお》いに圧迫されながらも芽を出してる樹木、または、太古の世界に充満してその後人間に滅ぼされてしまった動物どもの名残《なご》りとも言うべき、うろついてる犬や小鳥、あるいは、一群れの小蝿《こばえ》、町の一郭を蚕食してる眼に見えない病菌――それらに眼をやるだけで、人間の温室たるこの都会の息苦しい中にあって、大地の霊[#「大地の霊」に傍点]の息吹《いぶ》きが彼の顔に吹きつけてき、彼の元気を鼓舞するのであった。
彼はしばしば食も取らず、数日間だれとも話をせずに、そういう長い散歩をしながら、尽きぬ夢想のうちに浸った。その病的な気分は節食と沈黙とのためにひどく昂進《こうしん》していた。夜は、苦しい眠りや疲労を来たす夢に陥った。幼時を過ごした古い家が、その室が、たえず眼の前に浮かんできた。音楽的|妄想《もうそう》が、しつこく頭につきまとって来た。昼は、心の中にある人々や愛する人々、遠く離れてる人々や死んだ人々と、たえず話をかわした。
湿っぽい十二月の午後、霜氷は堅くなった芝生《しばふ》を覆い、人家の屋根や灰色の円屋根は霧にぼかされ、細長い屈曲した裸の枝を広げてる樹木は、靄《もや》の中におぼれて、大洋の底の海草に似ていた――その午後、クリストフは前日来|悪寒《おかん》を覚え身体が温まらなかったが、まだよく知らないルーヴル博物館にはいってみた。
彼はこれまで、大して絵画に心を動かされたことがなかった。内心の世界にあまり気を奪われていたので、色彩と形体との世界をよくとらえることができなかった。色彩や形体は、ただぼんやりした反響をもたらすのみである音楽的共鳴としてしか、彼に働きかけてこなかった。もちろん彼は本能的におぼろげながら知覚していた、音響的形体におけるごとく視覚的形体における諧調《かいちょう》を支配する、同じ法則や、または、生命の両反対の斜面をそそぐ色と音との両河が流れ出る、魂の深い水脈などを。しかし彼はその両斜面のうちの一つしか知らなかった。そして視覚の国においては少しも勝手がわからなかった。それゆえに、光の世界の女王とも言うべき明るい眼をしたフランスの、最も微妙なまたおそらく最も自然な魅力の秘密が、彼の眼には止まらなかった。
また、たとい絵画にも少し興味をもっていたとしたところで、クリストフはあまりにドイツ人であって、かくも異なったフランスの視覚にたやすく順応することができなかった。新式のドイツ人らは、ゲルマン風の感じ方を排して、印象主義や十八世紀のフランスを熱愛してるとみずから信じており――フランス人よりもそれらをよく理解してるとの確信をもち合わせない時でさえそう信じているけれども、クリストフは、そういう新式のドイツ人ではなかった。彼はおそらく野蛮人であったろう。しかし率直に野蛮人だったのである。ブーシェの小さな薔薇《ばら》色の臀《しり》、ワットーの肥満した頤《あご》、グルーズの、退屈そうな羊飼いや、コルセットの中にしめつけられてる太った羊飼いの女、よく捏《こ》ね上げられた魂、淑《しとや》かな流し目、フラゴナールのすり切れたシャツ、すべてそれらの詩的な肉体美も、世間の艶種《つやだね》を満載している新聞紙にたいするくらいの興味をしか、クリストフには与えなかった。彼はその豊麗な諧調を少しも了解しなかった。ヨーロッパのうちで最も精練されたその古い文明の、逸楽的な時として憂鬱《ゆううつ》な夢にたいして、彼はまったく門外漢であった。また十七世紀のフランスについても、そのあらたまった敬虔《けいけん》さやはでやかな肖像を、彼はやはり味わえなかった。その大家のうちの最も真面目《まじめ》な人々の多少冷やかな謹直さ、ニコラ・プーサンの尊大な作品やフィリップ・ド・シャンパンニュの蒼《あお》い人物の上に広がってる、魂のある灰色味は、クリストフをフランスの古い芸術から遠ざけてしまった。また新しいものについても、彼は少しも知るところがなかった。知ってるとすれば、誤り知ってるばかりだった。ドイツにいる時彼が心ひかされた唯一の近代画家ベックリン・ル・バロアは、
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