だろう。僕は稽古《けいこ》をしてやるつもりだ。」
ディーネルは当惑の様子をした。
「何かあるのかい。」とクリストフは言った。「そんなことをするくらいには十分僕に音楽の心得があることを、君は疑ってでもいるのかい。」
彼はあたかも自分の方で世話してやるかのような調子で、世話を求めてるのだった。ディーネルは、向こうに恩を感じさせる喜びのためにしか何かをしてやりたくなかったので、もう彼のためには指一本も動かしてやるものかと思っていた。
「君はそれには十分すぎるほど音楽を心得てはいるが……ただ……。」
「なんだい?」
「それはむずかしいよ、たいへん困難だよ、ねえ、君の境遇では。」
「僕の境遇?」
「そうだ……つまりあの事件が、あの表|沙汰《ざた》が……もしあれが知れ渡ると……僕にはどうも困難だ。いろいろ掛り合いを受けることになるかもしれない。」
彼はクリストフの顔が怒りにゆがんでくるのを見て言いやめた。そして急いで言い添えた。
「僕のことじゃない……僕は恐れはしない……。ああ、僕一人だけだったら!……叔父《おじ》がいるのでね……君も知ってるとおり、この家は叔父のものなんだ。叔父に言わなけりゃ僕には何にもできない……。」
彼はクリストフの顔つきと今にも破裂しそうなその様子とにますます脅かされて、あわてて言いだした――(彼は根は悪い男ではなかった。吝嗇《りんしょく》と見栄とが彼のうちで争っていた。クリストフに恵んでやりたくはあったが、なるべく安価に済ましたかった。)
「五十フランばかりでどうだい。」
クリストフは真赤《まっか》になった。恐ろしい様子でディーネルの方へ歩み寄った。ディーネルは急いで扉《とびら》のところまでさがり、それを開いて、人を呼ぼうとした。しかしクリストフは、充血した顔を彼にさしつけただけで我慢した。
「豚め!」と彼は鳴り響く声で言った。
彼はディーネルを押しのけ、店員らの間を通って、外に出た。敷居のところで、嫌悪《けんお》の唾《つば》をかっと吐いた。
彼は街路を大跨《おおまた》に歩いていった。怒りに酔っていた。その酔いも雨に覚《さ》まされた。どこへ行くのか? それを彼は知らなかった。知人は一人もなかった。考えようと思って、ある書店の前に立ち止まった。そして棚《たな》の書物を、見るともなくながめた。ある書物の表紙に、出版屋の名前を見てはっとした。なぜだかみずからいぶかった。やがて彼は、シルヴァン・コーンの雇われてる書店の名であることを思い出した。彼は所番地を書き取った。……しかしそれが何になろう? もとより尋ねてなんか行くものか……。なぜって?……友人だったあのディーネルの奴《やつ》でさえ、ああいう待遇をしたところを見ると、昔さんざんいじめられて憎んでるに違いない此奴《こいつ》から、何が期待されよう? 無駄《むだ》に屈辱を受けるばかりではないか。彼の血潮は反発していた。――しかしながら、おそらくキリスト教教育から来たらしい、先天的悲観主義の気質のために、彼は人間の賤《いや》しさをどん底まで感じてみようとした。「俺《おれ》は遠慮する必要はない。くたばるまではなんでもやってみなけりゃいけない。」
一つの声が彼のうちで言い添えた。
「そして、くたばるものか。」
彼はふたたび所番地を確かめた。そしてコーンのところへやって行った。少しでも横柄《おうへい》な態度に出たら、すぐにその顔を張りつけてやる決心だった。
書店はマドレーヌ町にあった。クリストフは二階の客間に上がって、シルヴァン・コーンを尋ねた。給仕が、「知らない」と答えた。クリストフはびっくりして発音が悪かったのだと思い、問いをくり返した。しかし給仕は、注意深く耳を傾けた後、家にそんな名前の者はいないと断言した。クリストフは面くらって、詫《わ》びを言い、出かけようとした。その時廊下の奥の扉《とびら》が開《あ》いた。見ると、コーンが一人の婦人を送り出していた。ちょうど彼はディーネルから侮蔑《ぶべつ》を受けたばかりのところだったので、皆が自分を馬鹿にしているのだと思いがちだった。それで、コーンは自分が来るのを見て、いないと言えと給仕に言いつけたのだと、彼は真先《まっさき》に考えた。そんな浅はかなやり方に、堪えられなかった。そして憤然と帰りかけた。すると呼ばれてる声が耳にはいった。コーンは鋭い眼つきで、遠くから彼を認めたのだった。そして唇《くちびる》に笑いをたたえ、両手を広げ、大袈裟《おおげさ》な喜びをありったけ示して、駆け寄ってきた。
シルヴァン・コーンは、背の低い太った男で、アメリカ風にすっかり髭《ひげ》を剃《そ》り、赤すぎる顔色、黒すぎる髪、広い厚ぼったい顔つき、脂《あぶら》ぎった顔だち、皺《しわ》寄った穿鑿《せんさく》的な小さい眼、少しゆがんだ口、重々
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