》をつけて進んでゆき、各文句に一つの悲劇がこもっていた。クリストフは彼女にその劇的能力を少し節減してくれと頼んだ。彼女は初めのうちかなり快くそれを努めた。しかし生来の鈍重さと声を出したい欲求とに打ち負けてしまった。クリストフはいらだってきた。自分は生きてる人間に口をきかせようとしたのであって、悪魔ファネルに拡声器で喚《わめ》かせようとしたのではないと、その尊重すべき婦人に注意した。彼女はその非礼を――だれも想像するごとく――ひどく悪く取った。彼女は言った、ありがたいことには自分は歌うということがなんであるかを知っている、楽匠ブラームスの前でその歌曲《リード》を歌うの光栄を得たこともある、楽匠はそれを聞いて少しも飽きなかったと。
「だからなおいけない、なおいけないよ!」とクリストフは叫んだ。
 彼女はその謎《なぞ》のような叫びの意味を説明してもらいたいと、尊大な微笑《ほほえ》みを浮かべながら求めた。彼は答えた、ブラームスは自然さのなんたるやを一|生涯《しょうがい》知らなかったので、その賛辞は最もひどい非難になるわけであって、また、自分――クリストフ――は、彼女がちょうど認めたとおり、時とすると非常に礼を失することもあるけれど、ブラームスの賛辞ほど彼女にとって不面目なことを決して言いはしないと。
 議論はそういう調子でつづいていった。彼女は頑固《がんこ》に、圧倒的な悲痛さで自己流に歌いつづけた。――でついにある日クリストフは――もうよくわかったと冷やかに言い放った。彼女の天性がそうである以上は、それを矯正《きょうせい》することはできない。しかしこれらの歌曲《リード》は、正しい歌い方で歌われないとすれば全然歌われない方がいい、もう番組から引きぬいてしまうばかりだと。――それは公演の前日のことだった。それらの歌曲《リード》が期待されていた。彼女みずからそれの噂《うわさ》をしていた。彼女とても相当の音楽家で、それのある長所を鑑賞することはできたのだった。クリストフのやり方は彼女にとって恥辱であった。でも翌日の音楽会がこの青年の名声を決して高めないだろうとは、彼女は確信できなかったので、新進の明星《スター》と葛藤《かっとう》を結びたくなかった。でにわかに折れて出た。そして最後の稽古《けいこ》中、クリストフの要求におとなしく服従した。しかし彼女は、自分の思いどおりに歌ってやろう―
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