としていた。――彼らに新しい幸福を受け入れさせるのは最も困難であることを、彼は少しも知らなかった。彼らはむしろ古い不幸の方をよしとするだろう。彼らには幾世紀もくり返し噛《か》みしめてきた食物が必要である。しかし彼らにとってことに忍びがたいことは、その幸福を他人のおかげで得られるという考えである。彼らはもはややむを得ない時にしかその侮辱を許さない。そして返報をしてやろうとくふうする。
 それゆえ、クリストフの打ち明け話がだれからもあまり快く迎えられなかったのには、多くの理由が存していた。しかし、ジーグムント・オックスから快く迎えられなかったのには、さらにも一つの理由が存していた。第一楽長のトビアス・プァイフェルは、遠からず隠退することになっていた。そしてクリストフは、年少なのにもかかわらず、その後を襲うべき幸運を有していた。オックスはきわめて善良なドイツ人であるだけに、クリストフが宮廷の信任を得ているからにはその地位に相当してると認めていた。しかし彼は、もし自分の価値が宮廷からもっとよく知られたら自分の方がいっそうよく相当していると、信ずるだけの自惚《うぬぼれ》をもっていた。それでクリストフが毎朝、引きしめようと努めながらもやはり煕々《きき》とした顔つきで劇場へやって来ると、異様な微笑を浮かべてその打ち明け話を迎えるのであった。
「どうです、」と彼は狡猾《こうかつ》そうに言った、「何かまた新しい傑作ができましたか?」
 クリストフは彼の腕をとらえた。
「ああ、君、こんどのは一番すぐれたものだよ……君に聞かしたいな!……いやどうも、あまりりっぱすぎるくらいだ。それを聞く者を、神よ助けたまえ、聞いたあとで心に残るのは、ただもう死にたいという考えばかりだ!」
 それらの言葉を聞いてる者は聾者ではなかった。クリストフはもしその滑稽《こっけい》なことを感じさせられたらまっ先に笑い出したであろうが、そのクリストフを相手にオックスは、微笑《ほほえ》みもせず、子供じみた感激を親しく揶揄《からか》いもせずして、皮肉にも恍惚《こうこつ》たる様子をした。彼はクリストフをおだてて、なお他の法外なことまでも言わした。そしてクリストフと別れると、それをさらにおかしく誇張して、急いで方々に売り歩いた。音楽家の狭い仲間では、それをまた盛んに嘲笑《ちょうしょう》した。そしてだれも皆、その拙劣な作品――
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