いする、年少気鋭な軽蔑《けいべつ》心のあまりに、民族の実際的大智が眼に映じなかった。この民族は、おのれの野蛮なる本能を統御せんがために、もしくはそれを利用せんがために、次第にその壮大な理想主義をうち立てたのであった。民族の魂を変形し、それに新しい性質を帯びさせるものは、専断な理性でもなく、道徳および宗教の規範でもなく、立法家および為政家でも、牧師および哲学者でもない。それは幾世紀もの不幸|艱難《かんなん》の所産であって、生きんと欲する民衆はその間に生のために鍛えられる。

 その間もクリストフは作曲していた。そして彼の作は、彼が他人に非難するその欠点から免れてはいなかった。なぜならば、彼にあっては創作はやむにやまれぬ欲求であって、その欲求は理知が提出する規則に服従しはしなかった。人は理性によって創造するのではない。必然の力に駆られて創造するのである。――次に、多くの感情に固有の虚偽や誇張を認めるだけでは、それらにふたたび陥るのを免れるものではない。長い困難な努力が必要である。時代相伝の怠惰な習慣の重い遺産をもちながら、現代の社会において、まったく真実たらんとすることは最も困難である。多くは沈黙を守《まも》るが最上の策であるにもかかわらず、おのれの心をたえずしゃべらしておく不謹慎な病癖をもってる人々や民衆にとっては、真実たることはことに容易でない。
 この点については、クリストフの心はきわめてドイツ的であった。彼はまだ沈黙の徳を知っていなかった。そのうえ、それは彼の年齢にもふさわしくなかった。彼はしゃべりたい欲求を、しかも騒々しくしゃべりたい欲求を、父から受け継いでいた。彼はそれを意識して、それと争っていた。しかしこの争いに彼の力の一部は痲痺《まひ》していた。――また彼は、祖父から受け継いだ遺伝と争っていた。それもまた同じく厭《いや》な遺伝で、自己を正確に表現することのはなはだしい困難さであった。――彼は技能の児《こ》であった。技能の危険な魅力を感じていた。――肉体的快楽、巧妙さや軽快さや筋肉の活動の快楽、おのれの一身をもって数千の聴衆を征服し眩惑《げんわく》し支配するの快楽。それは年若き者にあっては、きわめて宥恕《ゆうじょ》すべきほとんど罪なき快楽ではあるが、しかし芸術と魂とにとっては、致命的なものである。――クリストフはその快楽を知っていた。それを血の中にもってい
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