ツ的偽善の人物を、彼はよく知りすぎてい、現実に見たことがあった。さまよえるオランダ人[#「さまよえるオランダ人」に傍点]は、その重々しい感傷性と陰鬱《いんうつ》な倦怠《けんたい》とで彼の心を圧倒した。四部曲[#「四部曲」に傍点]の野蛮な頽廃《たいはい》的人物は、恋愛において堪《たま》らないほど空粗だった。妹を奪ってゆくジーグムントは、客間式の華想曲《ロマンス》をテナーで歌っていた。神々の黄昏[#「神々の黄昏」に傍点]中のジーグフリート、ブリュンヒルデは、ドイツのりっぱな夫妻として、たがいの眼に、とくに公衆の眼に、浮華|饒舌《じょうぜつ》な夫婦の情熱を盛んに見せつけていた。それらの作品中には、あらゆる種類の虚偽が集まっていた、嘘《うそ》の理想主義、嘘のキリスト教、嘘のゴチック主義、嘘の伝説味、嘘の神性味、嘘の人間味などが。あらゆる因襲を覆《くつがえ》すものとせられてるその劇ぐらい、巨大な因襲を振りかざしてるものはなかった。眼も精神も心も、片時なりとそれに欺かれるはずはなかった。進んで欺かれようと思わないかぎりは、欺かれるはずはなかった。――ところが人々の眼や精神や心は、欺かれることを望んでいた。ドイツは、その老耄《ろうもう》なまた幼稚な芸術を、解き放された畜生ともったいぶった気取りやの小娘との芸術を、歓《よろこ》び楽しんでいた。
 そしてクリストフ自身も、いかんともできなかった。彼はそういう音楽を聞くや否や、他人と同じく、他人よりももっとはなはだしく、音の急湍《きゅうたん》とそれを繰り出す作者の悪魔的意志とにとらえられた。彼は笑った、うち震えた、頬《ほお》を熱《ほて》らした。騎馬の軍隊が自分のうちを通るのを感じた。そういう暴風をおのれのうちにもってる人々には、すべてが許されてると考えた。もはやうち震えながらしか繙《ひもと》くことのできない神聖な作品のうちに、愛していたものの純潔さを何物にも曇らされることなく、昔と同じ激しい感動をふたたび見出す時、いかに彼は喜びの叫びをたてたことだろう! それは彼が難破から救い上げた光栄ある残留品だった。なんたる仕合わせぞ! 自分自身の一部を救い出したような気持だった。そして実際、それは彼自身ではなかったであろうか? 彼が憤激して非難したそれらドイツの偉人は、彼の血、彼の肉、彼の最も貴い存在、ではなかったであろうか? 彼が彼らにたいして
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