《おうと》を催した。
 ローザは駭然《がいぜん》として、彼の傍《かたわ》らに駆け寄った。彼の頭をかかえて泣いた。
 口がきけるようになると彼は言った。
「ほんとうなもんか!」
 彼はほんとうだと知っていた。しかしそれを否定したかった。あったことをないものにしたかった。けれど涙の流れてるローザの顔を見た時、もう疑えなかった。彼はすすり泣いた。
 ローザは顔をあげた。
「クリストフさん!」と彼女は言った。
 彼はテーブルの上に身を伸ばして、顔を隠していた、彼女はその上に身をかがめた。
「クリストフさん!……お母さんが来ますよ……。」
 クリストフは立上った。
「いやだ、」と彼は言った、「見られたくない。」
 彼女は彼の手を取り、涙で見えなくなってよろめいてる彼を、中庭に面してる小さな薪《まき》部屋まで連れていった。彼女は戸をしめた。真暗《まっくら》になった。彼は手当り次第に、薪割台の上に腰をおろした。彼女は薪束の上に腰かけた。外部の物音はかすかにしか聞こえなかった。そこで彼は人に聞かれる恐れなしに泣くことができた。彼は我を投げ出して激しくむせび泣いた。ローザは彼が泣くのをかつて見たことがなかった。彼に泣くことができようとさえも思っていなかった。彼女は自分の少女の涙しか知らなかった。そしてこういう男子の絶望を見ると、恐怖と憐憫《れんびん》とが胸いっぱいになった。彼女はクリストフにたいして熱烈な愛情を覚えていた。その愛には少しも利己的な点がなかった。それは犠牲になりたい無限の欲求、彼のために苦しみたい渇望、彼のあらゆる苦しみを身に引受けてやりたい渇望であった。彼女は母親のように彼を両腕で抱いてやった。
「クリストフさん、」と彼女は言った、「泣いてはいけないわよ!」
 クリストフは横を向いた。
「死んでしまいたい!」
 ローザは両手を握り合した。
「そんなことを言っちゃいや、クリストフさん。」
「僕は死んでしまいたい。もうできない……もう生きておれない……生きてたってなんの役にたつもんか。」
「クリストフさん、ねえクリストフさん、あなたは一人ぽっちじゃないわ。あなたを愛してる人もあってよ……。」
「それがなんになるもんか。もう何もかも厭《いや》だ。他のものは生きようと死のうと勝手だ。何もかも厭だ。あの女《ひと》だけを愛してたのに、あの女だけしか愛していなかったのに!」
 彼は両手に顔を隠しながら、さらに激しくむせび泣いた。ローザはもうなんとも言うことができなかった。クリストフの情熱の利己主義に、彼女は胸を刺し通された。最も彼に近づいてると思っていた瞬間に、かつてなかったほど孤独な惨《みじ》めな自分を感じたのであった。苦しみは、二人を近づけるどころか、ますます二人を引離していた。彼女は苦《にが》い涙を流した。
 ややあってクリストフは泣くのをやめた、そして尋ねた。
「でもどうして、どうして?……」
 ローザはその意味がわかった。
「あなたが発《た》った晩に、インフルエンザにかかったのよ、そしてすぐに亡《な》くなって……。」
 彼はうなった。
「ああ!……なぜ僕に知らしてくれなかったんだろう?」
 彼女は言った。
「私は手紙を書いたのよ。でもあなたのお所がわからなかったの、なんとも言い置いてくださらなかったんですもの。芝居へも聞きに行ったけれど、だれも知っていなかったの。」
 彼は彼女の恥ずかしがりなことを知っていたし、その奔走にはたいへん骨折れたろうと察した。彼は尋ねた。
「あの女《ひと》が……あの女がそうしてくれと言ったんですか?」
 彼女は頭を振った。
「いいえ、私が思いついて……。」
 彼は眼つきで彼女に感謝した。ローザの心は解けた。
「かわいそうに……クリストフさん!」と彼女は言った。
 彼女は泣きながら彼の首に飛びついた。クリストフはその純な愛情の貴《とうと》さを感じた。彼はどんなにか慰めてもらいたかった。彼は彼女を抱擁した。
「ありがとう。」と彼は言った。「ではあなたもあの女を愛していたんだね?」
 彼女は彼から身を離し、熱烈な眼つきで彼を見やり、なんとも答えず、また泣きだした。
 その眼つきは彼にとっては一の光明であった。それはこう言ってるがようだった。
 ――私が愛していたのは、あの女ではない……。
 クリストフはついに見てとった、まだ知らなかったことを――幾月も前から見ようと欲しなかったことを。彼は彼女から愛されていたことを見てとった。
「しッ!」と彼女は言った、「私を呼んでるのよ。」
 アマリアの声が聞こえていた。
 ローザは尋ねた。
「家へ行きますか?」
 彼は言った。
「いや、まだ駄目だ、母と話をすることなんかできない……。あとで……。」
 彼女は言った。
「ここにいらっしゃいな。じきにもどってくるから。」
 彼は暗い薪《まき》部屋に残った。一条の光が、蜘蛛《くも》の巣の張りつめた狭い軒窓から落ちていた。往来には物売女の呼び声が聞えていた。隣の厩《うまや》で一頭の馬が、壁に息を吐きかけ蹄《ひづめ》で蹴《け》っていた。クリストフは先刻悟った事柄について、なんらの喜びをも感じなかった。しかし一時はそれが気にかかった。今までわからなかった多くのことが、ようやく了解されてきた。今まで注意も払わなかった数多《あまた》の細かな事実が、頭に浮かんできて明瞭《めいりょう》になった。彼はそんなことを考えたのにみずから驚き、一瞬間といえども自分の悲しみから気を転じたのにみずから憤った。しかしその悲しみは、きわめて残虐なものだったので、愛欲よりもずっと強い自己保存の本能に強《し》いられて、彼はそれから眼をそらし、あたかも水におぼれた絶望者が、なお一瞬間水面に浮かぶ助けとなる物なら、何物にでも本意ならずもすがりつくがように、この新らしい考えに取りついたのであった。そのうえ、彼はみずから苦しんでいたので、他人が苦しんでる――しかも自分のために苦しんでるゆえんを、今感じたのであった。彼は先刻《さっき》流さした涙を理解した。ローザがかわいそうになった。彼女にたいして自分が残酷であったことを――なおこれからも残酷であるだろうことを、彼は考えた。なぜなら彼は彼女を愛していなかったから。彼女が彼を愛してもなんの役にたとう? 憐《あわ》れな娘よ!……彼女は親切だ(それを彼女は先刻証明した)ということを、彼はいたずらに思うばかりだった。彼女の親切さが彼に何になったろう?……彼女の生が彼に何になったろう?……彼は考えた。
「なぜ彼女の方が死ななかったのか、なぜあの女《ひと》の方が生きていないのか?」
 彼はまた考えた。
「彼女は生きている。私を愛している。今日か、明日か、生涯のうちには、それを私に言うことができる。――そしてあの女《ひと》、私が愛するただ一人の女、彼女は愛してることを私に告げずに死んでしまった。私の方でも愛してることを彼女に言わなかった。永久に私は彼女がそれを言うのを聞くことがないだろう。永久に彼女は言うことができないだろう……。」
 そして最後の夕の思い出が浮かんできた。たがいにうち明けようとしてると、ローザがやって来て二人を妨げたことを、彼は思い出した。そして彼はローザを憎んだ……。
 薪《まき》部屋の戸がまた開かれた。ローザは低い声でクリストフを呼び、手さぐりで捜した。彼女は彼の手を取った。彼はその手に触れて反発心を覚えた。みずからそれを心にとがめたが、どうにもできなかった。
 ローザは黙っていた。深い同情の念から口をつぐんでいたのである。クリストフは無駄《むだ》口で苦しみを乱されないのを感謝した。けれども彼は知りたかった。……あの女[#「あの女」に傍点]のことを話してくれる者は彼女一人だった。彼は低く尋ねた。
「いつあの女《ひと》は……?」
(死んだか、とは言い得なかった。)
 彼女は答えた。
「一週間前の土曜日に。」
 一つの思い出が彼の頭を過《よぎ》った。彼は言った。
「夜中ですね。」
 ローザはびっくりして彼をながめた。そして言った。
「ええ、夜中よ、二時と三時との間に。」
 あの悲しみのメロディーがまた彼に現われた。
 彼は震えながら尋ねた。
「たいへん苦しみましたか。」
「いいえ、仕合せと、別にお苦しみなさらなかったの。あんなにお弱かったんですもの。ちっとも逆らいなさらなかったの。すぐに、駄目《だめ》だということがわかったのよ。」
「そしてあの女《ひと》は、前からそれと知っていましたか。」
「さあどうですか。でもなんだか……。」
「何か言いましたか。」
「いいえ、何にも。赤ん坊のようにむずがっていらしてよ。」
「あなたはそばにいたんですか。」
「ええ、初めの二日間、兄さんがいらっしゃるまで、一人でついていたの。」
 彼は感謝の念に駆られて彼女の手を握りしめた。
「ありがとう。」
 彼女は血が心臓にこみ上げてくるような気がした。
 ちょっと黙ってた後に、彼は言った、息がつまるような問いをつぶやいた。
「あの女《ひと》は何にも言わなかったんですか……僕にたいして。」
 ローザは悲しげに頭を振った。彼が待ってる返事をしてやることができたら、何を投げ出しても惜しく思わなかったであろう。嘘《うそ》を言うことができないのが心苦しかった。彼女は彼を慰めようとつとめた。
「もう本心を失っていらしたんですもの。」
「口をききましたか。」
「意味がよくわからなかったの。ごく低い声でした。」
「娘さんはどこにいます?」
「兄さんが田舎の家へ連れていったの。」
「そして、あの女[#「あの女」に傍点]は?」
「やはり向うに。前週の月曜日に、ここから発《た》たれたの。」
 二人はまた泣き出した。
 フォーゲル夫人の声がまたローザを呼んだ。クリストフはふたたび一人残って、逝去《せいきょ》のその日々に立ちもどってみた。一週間、もう一週間になっていた……。嗚呼《ああ》、あの女《ひと》はどうなったのだろう。その週間は、なんと雨が多いことだったろう、地上では!……そして彼は、その間じゅう笑い楽しんでいたではないか!
 彼はポケットの中に、絹紙に包んだ物を感じた。彼女の靴《くつ》につけてやるためにもって来た銀の留金《とめがね》であった。靴から出てる小さな足先に手を押し当てた夕のことを、彼は思い出した。その小さな足も、今はどこにあるのか。どんなにか冷えきってることだろう!……その生あたたかい接触の思い出だけが、あの愛する身体から得た唯一のものであることを、彼は考えた。彼はかつてその身体に触れ得なかった、それを両腕に抱き取り得なかった。彼女はまったく識《し》られないままで去っていった。彼女については、魂も肉体も、彼は少しも知るところがなかった。彼女の形態や生命や愛について、彼は一つの思い出も持っていなかった。……彼女の愛?……その証拠さえあったのであろうか。……手紙も、形見の品も――なんにも彼はもたなかった。自分の中にか、自分の外にか、どこに彼女をとらえ彼女を捜したらいいか?……ただ虚無! 彼女について彼に残ってるものは、彼女にたいする彼の愛ばかりであった。彼に残ってるものは彼自身ばかりであった……。――それでもなお、壊滅の手から彼女をもぎ取らんとする激しい欲望と死を否定せんとする欲求のために、彼はその最後の遺品に執着して、狂信的な一句の中に没入した。

 妾《わらわ》は死にたるに非ず、住居《すまい》を変えたるなり。
 泣きつつ妾を見給う君のうちに、妾は生きて残れり。
 愛せられし魂は姿を変うるも、恋人の魂の外には出でじ。

 彼はそれらの崇高な言葉を読んだことはかつてなかった。しかしそれは彼のうちにあったのである。人は皆順次に、幾世紀となく十字架に上ってゆく。各自に苦悶を見出し、幾世紀となき絶望的な希望を見出す。かつて生存した人々、かつて死とたたかい、死を否定し――そして死んだ人々、彼らの足跡をそのまま、各自にたどってゆく。

 彼は家に閉じこもった。向うの家の窓を見ないために、終日雨戸を閉ざしておいた。彼はフォーゲル一家の者を避けた。彼らが厭で
前へ 次へ
全30ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング