。」
「かわいそうな娘さんだこと!」とザビーネは言った。
 二人は黙った。
「ああ、いつも今のようだったら!……」とクリストフは溜息《ためいき》をついた。
 彼女はにこやかな眼で彼の方を見上げたが、また眼を伏せた。彼は彼女が仕事をしてるのに気づいた。
「何をしているんです?」と彼は尋ねた。
 (二人は、両方の庭の間に張られた蔦《つた》の帷《とばり》で隔てられていた。)
「おわかりでしょう。」と彼女は言いながら、膝の上の皿《さら》をもち上げた。「豌豆《えんどう》の莢《さや》をむいていますの。」
 彼女は大きな溜息をもらした。
「でもそれは厭な仕事じゃありません!」と彼は笑いながら言った。
「あらたまりませんわ、」と彼女は答えた、「いつも食べ物のことにかかりあってるのは!」
「きっとあなたは、」彼は言った、「もしできることなら、厭な思いをして食べ物をこしらえるより、食べないですます方の人ですね。」
「ほんとにそうですわ!」と彼女は叫んだ。
「お待ちなさい。手伝ってあげます。」
 彼は垣根《かきね》をまたぎ越して、彼女のそばに来た。
 彼女は家の入口のところで椅子《いす》に腰かけていた。彼は彼女の足下の踏段にすわった。腹のところにたくねてある彼女の長衣の皺《しわ》の中から、彼は青い豌豆の莢《さや》をつかみ取った。そして彼女の膝にはさまれてる皿の中に、丸い小さな豆を入れた。彼は下を見つめていた。ザビーネの黒い靴《くつ》下が見えていて、踝《くるぶし》や足先の形を示していた。彼は彼女を見上げられなかった。
 空気は重かった。空は白ばんでごく低くたれ、そよとの風もなかった。一枚の木の葉も動かなかった。庭は大きな壁で仕切られ、世界はそこで終っていた。
 子供は隣の女と出かけていた。二人きりだった。二人は物を言わなかった。もう何にも言うことができなかった。眼をあげないで彼は、ザビーネの膝から、なお豌豆をつかみ取った。その指先は彼女に触れると震えた。瑞々《みずみず》しいなめらかな莢の中で、ザビーネの指先に出会った。彼女の指も震えていた。二人はもうつづけることができなかった。たがいに眼をそらしてじっとしていた。彼女は椅子に身をそらし、口を半ば開き、両腕をたれていた。彼はその足下にすわり、彼女に背をもたしていた。肩と腕とに沿って、ザビーネの膝の温《ぬく》みを感じた。二人とも息をはずましていた。クリストフは手のほてりを冷すために石に押しあてた。その片方の手が、靴から出てるザビーネの足先に触れた。そして引離すことができなくてその上を押えた。二人ともぞっと身を震わした。茫《ぼう》として気を失いかけた。クリストフの片手はザビーネの小さな足の細い指先を握りしめていた。ザビーネは汗ばみまた冷たくなって、クリストフの方へ身をかがめてきた……。
 聞き慣れた人声が、その陶酔から二人を呼びさました。二人は震え上った。クリストフは一挙に飛び立ち、また垣根《かきね》を越えた。ザビーネは長衣の中に莢を拾い集めて、家へはいった。中庭から彼はふり向いた。彼女は戸口に立っていた。二人は顔を見合った、雨の細かな粒が木の葉に音をたて始めていた……。彼女は戸を閉ざした。フォーゲル夫人とローザとがもどってきた……。彼は自分の室にはいった……。
 黄色っぽい昼の光が、激しい雨におぼれて消えかかったころ、彼は抗しがたい衝動に駆られてテーブルから立上った。しまってる窓のところへかけつけて、向うの窓の方へ両腕を差出した。同時に、向うの窓に、しまってる窓ガラスの後ろに、室の薄暗がりの中に、両腕をこちらに差出してるザビーネの姿を、彼は見た――見たと思った。
 彼は室から駆け出した。階段を降りて行った。庭の垣根《かきね》に駆け寄った。人に見られるのも構わずに、それを乗り越そうとした。しかし、彼女の姿が見えた窓をながめると、雨戸がすっかりしめ切ってあった。家の中は寝静まってるかと思われた。彼は行くのを躊躇《ちゅうちょ》した。窖《あなぐら》へ行こうとしていたオイレル老人が、彼を見て呼びかけた。彼は足を返した。夢をみたような気がした。

 ローザはどういうことが起こってるか、長く気づかないではいなかった。元来彼女には狐疑《こぎ》心がなかったし、嫉妬《しっと》の感情とはどんなものだかまだ知らなかった。彼女はすべてを与えるつもりでい、また代わりに何かを求めようとはしなかった。しかし、クリストフから少しも愛してもらえないことを悲しげにあきらめてはいたものの、クリストフが他の女を愛するようなことがあろうとは、かつて思ってもみなかった。
 ある晩、食事のあとに、彼女は数か月来のめんどうな刺繍《ししゅう》をなし終えた。うれしい心地がした。一度クリストフと話をしに行って、いくらか心を晴らしたかった。母が背を向けてるのに乗じて、室からぬけ出した。悪戯《いたずら》をする小学生徒のように、家の外に忍び出た。いつまでたってもその仕事が終えるものかと軽蔑《けいべつ》的な口をきいたクリストフを、少しやりこめてやるのが楽しみだった。この憐《あわ》れな娘は、自分にたいするクリストフの感情がどんなものだか、いたずらに知ってるばかりだった。自分で人に会うのがうれしいものだから、他人も自分に会えばうれしいものだといつも考えがちであった。
 彼女は表に出た。家の前にはクリストフとザビーネとが腰かけていた。ローザの心は悲しくなった。けれども彼女は、その不穏当な印象を受けてもやめなかった。彼女は快活にクリストフを呼びかけた。その鋭い声音を静かな夜の中に聞いて、クリストフは誤った音符を聞いたような気がした。彼は椅子《いす》の上でぞっとし、怒りに顔をしかめた。ローザは彼の鼻の先に、得意然として刺繍《ししゅう》を振ってみせた。クリストフは苛立《いらだ》ってそれを押しのけた。
「できあがったわ、できあがったわ!」と彼女は言い張っていた。
「ではも一つ始めたらいいでしょう。」とクリストフは冷淡に言った。
 ローザはまごついた。喜びはすべて消えてしまった。
 クリストフは意地悪く言いつづけた。
「そしてあなたがそれを三十もこしらえたら、すっかりお婆《ばあ》さんにでもなったら、生涯《しょうがい》を無駄《むだ》にはしなかったと自分で考えることぐらいはできるでしょう。」
 ローザは泣きたくなっていた。
「まあ意地悪だこと!」と彼女は言った。
 クリストフは恥ずかしくなった。そして二、三言親切な言葉をかけてやった。彼女はごくわずかなことにも満足しがちだったので、すぐにまた信頼してしまった。そして盛んに騒々しいおしゃべりをやりだした。家の中での習慣のために、低い声で話すことができずに、大声にわめきたてた。クリストフはいくら我慢をしても、不機嫌《ふきげん》さを隠すことができなかった。初めは苛立った簡単な言葉を返してやったが、次にはもうなんとも返辞をせず、背中を向けて、彼女のがらがらしたおしゃべりのままに歯ぎしりをしながら椅子《いす》の上にやきもきした。ローザは彼がじりじりしてるのを見、黙らなければいけないことを知っていた。それでもなお激しくしゃべりつづけるばかりだった。ザビーネは数歩先の暗がりの中で黙って、皮肉な平静さでその光景を見ていた。それから飽きてきて、その晩はもう駄目になったと感じながら、立上って家にはいった。クリストフは彼女がいなくなってからようやく、彼女の立去ったことに気づいた。そして自分もすぐ立上り、言い訳もしないで、冷やかな挨拶《あいさつ》を言い捨てて、ふいと行ってしまった。
 ローザは街路に一人残って、彼がはいって行った戸をがっかりしながらながめていた。涙が出て来た。彼女は急いで家にはいり、母と口をきかないで済むようにと、足音をたてないで自分の室に上ってゆき、大急ぎで着物をぬぎ、一度寝床にはいって蒲団《ふとん》をかぶると、そのまますすり泣き始めた。彼女は今起こったことを考えてみようとはしなかった。クリストフがザビーネを愛してるかどうか、クリストフとザビーネとが自分を辛抱することができないかどうか、それをみずから尋ねてみなかった。彼女は知っていた、万事終ったことを、もはや生活には意義がなくなったことを、ただ死ぬより外はないことを。
 翌朝になると、また考慮の力が永久のいたずらな希望を伴って彼女に帰ってきた。前夜の出来事を一々思い起しながら、それをあれほど重大に考えたのは間違いだったと思い込んだ。もちろんクリストフは彼女を愛していなかった。がそれは、こちらから愛してるのでついには向うからも愛されるだろうという、ひそかな考えを心の底に秘めて、あきらめていた。しかしザビーネと彼との間に何かあるということを、どの点で見て取られたのか。あんなに賢い人が、だれの目にも下らなく平凡に見える女などを、どうして愛することができようか。彼女は安心を覚えた。――がやはり、クリストフを監視し始めた。その日は何にも眼に止らなかった、なぜなら、眼に止るようなことが何にもなかったから。しかしクリストフの方では、彼女が終日自分のまわりをうろうろしてるのを見て、なぜとなく妙な苛立《いらだ》ちを覚えた。晩に彼女がまた往来へ出て来て、思い切って、二人の横に腰をおろすと、彼の苛立ちはさらに激しくなった。それは前夜の光景の反復であった。ローザが一人でしゃべった。しかしザビーネは前夜ほど長く待たないで、間もなく家へはいった。クリストフもそれに倣《なら》った。ローザはもはや、自分のいるのが邪魔になってることを、みずから隠すわけにゆかなかった。しかしこの不幸な娘は自分を欺こうとつとめた。自分の心をごまかそうとするのは、最もいけないことだとは気づかなかった。そしていつもの頓馬《とんま》さで、その後毎日同じことをやった。
 翌日クリストフは、ローザを傍《かたわ》らに控えながら、ザビーネが出て来るのをむなしく待った。
 その次の日には、ローザ一人きりだった。二人は彼女と争うのをやめていた。しかし彼女がかち得たものは、クリストフの恨みだけだった。クリストフは唯一の幸福たる大事な晩の楽しみを奪われたのを、非常に憤った。自分の感情にばかりふけって、かつてローザの感情を察してやろうともしなかっただけに、彼女をいっそう許しがたく思った。
 かなり以前からザビーネは、ローザの意中を知っていた、自分の方で愛してるかどうかを知る前に、すでに彼女はローザが嫉妬《しっと》を感じてるのを知っていた。しかし彼女はそれについてなんとも言わなかった。そして勝利を確信してる美しい女にありがちの残忍さをもって、彼女は黙って嘲弄《ちょうろう》半分に、拙劣な敵の徒労をながめていた。

 ローザは戦場を自分の手に収めながらも、自分の戦術の結果を憐れにもうちながめた。彼女にとって最善の策は、強情を張り通さないことであり、クリストフを平穏にさしておくことであった、少なくとも当分のうちは。ところが彼女はそうしなかった。そして最悪の策は彼にザビーネのことを話すことだったが、彼女はまさしくそれをした。
 彼女は胸を踊らせながら、彼の意中を知ろうとして、ザビーネはきれいだとこわごわ言ってみた。非常にきれいだとクリストフは冷やかに答え返した。ローザはみずから求めたその答えを予期していたものの、それを耳にきくと心に打撃を受けた。ザビーネがきれいであることを彼女はよく知っていた。しかしかつてそれを気に止めなかった。ところが今初めて、クリストフの眼を通して彼女をながめていた。そして見て取ったのは、彼女のすっきりした顔だち、小さな鼻、かわいい口、ほっそりした身体、優美な動作……。ああどんなにか切ないことだった!……そういう身体になれるならば、何物に換えても惜しいとは思わなかった。自分の身体よりあの身体の方を人が好む訳は、あまりによくわかった。……自分の身体は!……こんな身体に生まれるとはなんの因果だったろう。なんという重々しい身体だろう。なんと醜く見えることだろう。なんと厭らしいことだろう。そして、それから解放されるには死より外に道はないと考えると!
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