とでもいうような調子だった。神聖な一日じゅう、何にもせず、勝手なことに多くの時間をつぶし、人が懲役人のように身を粉にして苦労してるのに、横柄にも落着き払ってそれを馬鹿にするとは――おまけに、世間の者までが彼女を至当だとするとは――それはあんまりのことだった。正直に暮そうとする勇気をくじくものだった!……が幸いにも、神はよくしたものだ! この世にまだ分別をそなえた者が数人あった。フォーゲル夫人はそれらの人々といっしょにみずから慰めていた。若い寡婦について、鎧戸《よろいど》の間からのぞき得た一日のことを皆で言い合った。それらの悪口は、晩に食卓へ皆集った時、一家の者の喜びとなった。クリストフは心を他処《よそ》にして聞いていた。フォーゲル一家の者たちが隣人の行いを非難するのを、彼はあまりに聞き慣れていたので、もうそれになんらの注意も払わなかった。そのうえ彼はまだザビーネ夫人については、その露《あら》わな頸《くび》筋と両腕とをしか知らなかった。それらのものはかなり気に入るものではあったが、それだけでは、彼女の一身に決定的な断案を下すわけにはゆかなかった。けれども彼は、彼女にたいして十分の寛容を心に感じていた。そして施毛曲《つむじまが》りの気質から、彼女がフォーゲル夫人の気に入っていないことがことにありがたかった。
ごく暑い時には、夕食後、午後じゅう日の当っていた息苦しい中庭に残ってることはできなかった。家じゅうで少し息のつける場所といっては、ただ往来のそばだけだった。オイレルとその婿とは、ルイザといっしょに、時々入口へ行ってその段に腰をおろした。フォーゲル夫人とローザとは、ちょっと姿を見せるきりだった。家庭の仕事に引止められていた。フォーゲル夫人は、ぶらぶらする隙《ひま》がないことを示すのを誇りとしていた。手いっぱいに仕事をしないで家の入口で欠伸《あくび》ばかりしてるようなそんな人たちを見ると、気が苛《い》ら苛らしてくるなどというようなことを、聞えよがしに高い声で言っていた。彼らを働かせることができない――(彼女はそれを口惜《くや》しがっていた)――ので、その姿を見まいと決心して、家にはいって癇癪《かんしゃく》まぎれに働いた。ローザは彼女を真似《まね》なければならないと思っていた。オイレルとフォーゲルとは、どこにいても風が強すぎるような気がし、身体が冷えるのを恐れて、室へ上って行った。彼等は早くから寝た。そしてどんなことがあっても、少しも平素の習慣を変えたがらなかった。九時過ぎには、もはやルイザとクリストフとしか表には残っていなかった。ルイザは終日室の中で過していたから、晩になるとクリストフは、彼女に少し外の空気を吸わせるために、できるだけ誘い出すようにしていた。彼女は一人ではなかなか外に出なかった。往来の喧騒《けんそう》をきらっていた。子供らが鋭い叫びをたてて追駆け合っていた。近所の犬がそれに答えて吠《ほ》えたてていた。ピアノの音が聞え、少し遠くにはクラリネットの音が、隣の街路にはコルネットの音が聞えていた。種々の声が呼びかわしていた。人々がそれぞれ家の前を連れだって行き来していた。ルイザはそういう混雑の中に一人放り出されたら、もうどうにもしようがないと思ったろう。しかし息子《むすこ》のそばにいると、かえってそれが面白く思われるほどだった。物音は次第に静まっていった。子供や犬などがまっ先に寝にいった。人々の群が小さくなっていった。空気はいっそう清らかになった。静寂が落ちてきた。ルイザは細い声で、アマリアやローザから聞いた世間話をした。彼女はそんな話を大して面白がってるのではなかった。しかし彼女は息子《むすこ》を相手に何を話していいかわからなかった。しかも息子に近寄って何か言ってみたかったのである。クリストフはその気持を感じて、彼女の話を面白く思ってるらしいふうを装った。しかし耳は傾けていなかった。彼はぼんやりした気分に浸り込んでいって、その日の出来事を思い起こしていた。
ある晩、二人がそうしていると――母が話をしてる間に、彼は隣の小間物屋の入口が開《あ》くのを見た。女の姿が黙って出て来て、往来に腰をおろした。その椅子《いす》はルイザから数歩の所にあった。女は最も濃い暗がりの中にすわっていた。クリストフはその顔を見ることができなかった。しかしだれであるかはわかった。彼の茫然《ぼうぜん》たる気持は消え失《う》せた。空気がいっそうやさしくなったように思われた。ルイザはザビーネがいるのに気もつかないで、その静かなおしゃべりを低い声でつづけていた。クリストフは前よりもよく耳を傾けた。そしてそれに自分の意見も交えたくなり、口をききたくなり、またおそらく言葉を向うの女に聞かせたくなった。彼女の痩《や》せた姿は、じっと身動きもせず、少しがっかりしたような様子で、足を軽く組み、両手を膝《ひざ》の上に平たく重ねていた。前方をまっすぐに向いて、何にも耳にしていないらしかった。ルイザはうとうとしていた。そして家にはいった。クリストフはも少し残っていたいと言った。
もう十時になりかけていた。通りはひっそりしていた。しまいまで残っていた近所の人たちも、順々に家へはいっていった。店の戸の閉《しま》る音が聞えた。燈火のさしていたガラス戸がまたたいて見えなくなっていった。まだ一つ二つ残っていたが、それもすぐに暗くなった。しいんとした。……彼らは二人きりだった。たがいに顔を見合わしもせず、息を凝らして、おたがいにそばにいるのも知らないような様子だった。遠い野から、草の刈られた牧場の香《かお》りが漂ってき、隣の露台《バルコニー》から、一|鉢《はち》の丁字の花の匂《にお》いがしてきた。空気はよどんでいた。天の川が流れていた。一本の煙筒の真上に、北斗星が傾いていた。青白い空に星が菊のように花を開いていた。教区の会堂で十一時が鳴ると、その響きに合わして、他の会堂で澄んだ響きや錆《さ》びた響きがくり返され、また家の中で、掛時計の重い音や鳴時計の嗄《しゃが》れた声がくり返された。
二人は夢想から覚《さ》めて、同時に立上った。そして家にはいりかける時、二人ともそれぞれ、無言のまま頭で会釈をした。クリストフは室にもどった。蝋燭《ろうそく》をともし、テーブルの前にすわり、両手で頭をかかえ、何にも考えもせずに長い間じっとしていた。それから溜息《ためいき》をついて、寝床にはいった。
翌日、彼は起き上ると、機械的に窓へ近寄って、ザビーネの室の方をながめた。しかし窓掛は降りていた。午前中降りていた。その後はいつも降りていた。
翌晩クリストフは、また家の前へ出ようと母に言い出した。それが習慣になった。ルイザは喜んだ。彼が夕食を済ますとすぐに、窓を閉め雨戸を閉めて室に閉じこもってしまうのを見ると、彼女は心配になるのであった。――小さな無言の人影もまた、いつもの場所にすわりに来ることを欠かさなかった。彼らはルイザの気づかぬまに素早く頭で会釈をかわした。クリストフは母と話をした。ザビーネは往来で遊んでる自分の娘に微笑《ほほえ》みかけていた。九時ごろに彼女は娘を寝かしに行き、それからまた音もなくもどってきた。彼女が少し手間どると、クリストフは彼女がもうもどって来ないのではないかと気をもみ始めた。家の中の物音や、眠ろうとしない小娘の笑声などを、彼は窺《うかが》った。ザビーネが店の入口に現われない前から、その衣《きぬ》ずれの音を聞き分けた。彼女が出て来ると、彼は眼をそらして、いっそう元気な声で母に話しかけた。時とすると、ザビーネからながめられてる気がした。彼の方でもまたそっと流し目に見やった。しかしかつて二人の眼は出会わなかった。
子供が仲介の役を勤めた。彼女は他の子供らとともに往来を走り回った。足の間に顔をつき込んで眠ってるおとなしい犬を、皆でからかっては面白がっていた。犬は赤い眼を少し開いて、しまいには気を悪くしたらしい唸《うな》り声を発した。すると子供らは、怖《こわ》さと面白さとに声をたてながら四方へ逃げ散った。娘は金切声を出して、あたかも追っかけられてるように後ろを見い見い、やさしく笑っていたルイザの膝《ひざ》へ駆け寄ってすがりついた。ルイザは娘を引止めて種々尋ねだした。それからザビーネとの間に話が始った。クリストフは少しも口を出さなかった。彼はザビーネに話しかけなかった。ザビーネも彼に話しかけなかった。暗黙の習慣から、二人はたがいに知らないふうをした。しかし彼は自分を通りこしてかわされてる話の一語をも聞きもらさなかった。ルイザには彼のその無言が反感を含んでるもののように思われた。ザビーネの方はそうは判断しなかった。しかし彼女は彼に気がひけて、多少返辞にまごついた。すると家の中へはいる口実を見つけるのであった。
一週間の間、ルイザは風邪《かぜ》をひいて室にこもった。クリストフとザビーネとは二人きりだった。最初の晩は、二人とも恐《こわ》がっていた。ザビーネはてれ隠しに、娘を膝に抱き上げて、やたらに接吻《せっぷん》しつづけた。クリストフは困って、向うの様子を知らないふうをつづけたものかどうか迷った。変なぐあいになってきた。二人はまだ言葉をかわしたことはなかったが、ルイザのおかげですっかり知り合いになっていた。彼は一、二の文句を喉《のど》から出そうとした。しかしその声は中途でつかえてしまった。すると娘が、こんどもまた二人を当惑から救ってくれた。娘は隠れん坊をしながら、クリストフの椅子《いす》のまわりを回った。クリストフはその途中をとらえて、抱いてやった。彼は元来あまり子供好きでなかったが、その娘を抱きしめると、不思議な快さを感じた。娘は遊びに気をとられて、身をもがいた。クリストフは少しからかってやった。手に噛《か》みつかれた。それで地面に降ろしてやった。ザビーネは笑っていた。二人は子供を見ながら、なんでもない言葉をかわした。それからクリストフは、話の糸口を結ぼうと――(そうしなければならないと思って)――つとめた。しかし言葉の種が豊富でなかった。それにザビーネは、その仕事を少しもやさしくしてくれなかった。彼女は彼が言うことをただくり返すだけで満足した。
「いい晩ですね。」
「ええ、ほんとにいい晩ですわ。」
「中庭では息もつけません。」
「ええ、中庭は息苦しゅうございますね。」
話は困難になってきた。ザビーネは娘を連れもどす時刻なのをよい機会にして、娘といっしょに家にはいった。そしてもう出て来なかった。
クリストフは、彼女がその後毎晩同じようにして、ルイザが来ない間は二人きりになるのを避けはすまいかと気づかった。しかしそれは反対だった。翌日は、ザビーネが話を始めようとした。彼女は気が向いてるからというよりもむしろつとめてそうした。話の種を見つけるのにたいそう骨折ってることが、言い出した問いに自分でも困ってることが、よく感じられた。問いと答えとが、苛立《いらだ》たしい沈黙の間にぽつりぽつりと落ちた。クリストフはオットーと二人きりの初めのころのことを思い出した。しかしザビーネに対しては、話題の範囲はさらに狭かった。それに彼女はオットーほどの気長さをもたなかった。つとめてもあまりうまくゆかないことを見てとると、もうつづけて気を入れなかった。あまりに骨を折らなければならなかったので、もう面白くなくなった。彼女は口をつぐんだ。そして彼もそれに倣《なら》った。
間もなく、すべてはきわめて穏かになった。夜はまた静かになり、二人の心はまた考えにふけった。ザビーネは夢想しながら、椅子《いす》の上にゆるやかに身を揺すっていた。クリストフはそのそばで夢想していた。二人はたがいに何にも言わなかった。三十分もたつと、ある苺《いちご》車の上から生暖かい風が吹き送ってくる酔わすような匂いに、クリストフはうっとりとなって、小声に独語《ひとりごと》を言った。ザビーネはそれに二、三言答えた。それから二人はまた黙った。そのなんとも言えない沈黙とその無関心な数言との魅力を味わった。二人は同じ夢想にふけり、
前へ
次へ
全30ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング