んだろう、どうしたんだろうねえ。」
 この働き者の老婆《ろうば》は、どうして自分の力がにわかに折れくじけてしまったか、それを理解することができなかった。そしてただ恥ずかしい思いをした。彼はそれに気づかないふりを装った。
「少しくたびれたんですよ、お母さん。」と彼はつとめて平気な調子で言った。「なんでもないことでしょう。今によくなります……。」
 しかし彼も心配になった。幼い時から彼は、あらゆる艱難《かんなん》に黙って堪えてゆく雄々しい忍従的な彼女の姿を、いつも見慣れていた。そして今のその悄沈《しょうちん》したさまが、彼には心配だった。
 彼は彼女に手伝って、床《ゆか》の上に散らかってる品物を片付けた。時々彼女は、ある品に心止めてぐずついた。しかし彼はそれを彼女の手から静かに取上げた。彼女はなされるままになっていた。

 それ以来彼は、前よりもつとめて母といっしょにいるようにした。仕事を終えると、自分の室に閉じこもらないで、彼女のところへ行った。彼女がいかほど孤独であるかを、また孤独に堪えるほど十分強くないことを、彼は感じていた。彼女をそのまま一人で置くのは危険だった。
 夕方には、往来に面した窓を開《あ》けて、そこで彼は彼女のそばにすわった。野の景色《けしき》が次第に見えなくなっていった。人々は家に帰りかけていた。小さな燈火が遠くの家々にともっていた。二人は幾度となくそれらのさまを見たことがあった。しかしもう間もなく、それも見られなくなるのだった。二人は途切れがちの言葉をかわした。前からわかってる知れきった夕の些細《ささい》な出来事を、いつも新しい興味で、たがいに話し合った。長く黙り込んでることもあった。あるいはまたルイザは、頭に浮かんでくる思い出を、きれぎれの話を、なぜともなく持出すこともあった。自分を愛してくれる心がそばにあることを感ずると、彼女の舌は少し解けてきた。つとめて話をしようとした。でもそれはむずかしかった。彼女は家の者からわきに離れてる習慣がついていたのである。自分がいっしょに話をするには、息子《むすこ》たちや夫はあまりに怜悧《れいり》すぎると思っていた。皆の話に口を出しかねていた。それでクリストフの孝心深い親切は、彼女にとっては新しいことで、この上もなくうれしいことだった。しかしまたそれに気おくれがした。容易に言葉が出て来なかった。考えをはっきり言いかねた。文句を途中で言いさして、曖昧《あいまい》のままにした。時とすると、自分で言ってる事柄を恥ずかしがることもあった。息子の顔をながめて話の中途で口をつぐんだ。しかし彼は彼女の手を握りしめてやった。彼女は安心を覚えた。彼はその子供らしいまた母親たる魂にたいして、愛情と憐憫《れんびん》とをしみじみ感じた。幼い時彼はその魂の中に身を縮めていたのであるが、今では向うから彼に支持を求めていた。そして彼以外にはだれにも興味のないその些細《ささい》な無駄話や、常に平凡で喜びもなかったがルイザには限りない価があるように思われた生活の、つまらないそれらの思い出話などに、彼はもの悲しい楽しみを覚えた。また時には、彼女の言葉をさえぎろうとすることもあった。それらの思い出がなおいっそう彼女を悲しませはすまいかと恐れた。そして彼女に寝るように勧めた。彼女は彼の意をさとって、感謝の眼つきで彼に言った。
「いいえ、この方が私には気持がいいんだよ。も少しこうしていましょう。」
 二人は夜が更《ふ》けてあたりが寝静まるまで、そのままじっとしていた。それからお寝《やす》みなさいと挨拶《あいさつ》をかわした、彼女は苦しみの荷の一部を肩から降ろしていくらかほっとしながら、そして彼は自分に新しい荷が加わったことを多少悲しく思いながら。
 移転の日が迫ってきた。その前日、二人はいつもより長い間、室に燈火もつけずにじっとしていた。たがいに言葉もかわさなかった。時々ルイザは溜息《ためいき》をついた、「ああ、ああ!」クリストフは翌日の引越の種々な細かい事物にばかり注意を向けようとつとめた。彼女は寝ようとしなかった。彼はやさしく彼女を無理に寝さした。しかし彼自身も、自分の室に上っていってから、長く寝床にはいらなかった。窓からのぞき出して、闇《やみ》の中を透しながめ、家の下にある河の真暗《まっくら》な流れを、最後にも一度見ようとした。ミンナの庭に立ち並んだ大木の間に、風の吹き過ぎる音が聞えていた。空は真暗だった。街路には通る人もなかった。冷たい雨が落ち始めていた。風見《かざみ》がきしっていた。隣りの家で子供が泣いていた。夜は重苦しい悲しみで地上にのしかかっていた。時計の時間の単調な音や、三十分と十五分との粗雑な音が、屋根の雨音に点綴《てんてい》されてる陰鬱《いんうつ》な沈黙の中に、相次いで落ちていた。
 クリストフが心凍えて、ついに寝ようと思った時、下の窓の閉まる音が聞えた。そして彼は寝床の中で、過去に執着するのは貧しい人々にとっては酷《むご》たらしいことであると考えた。なぜなら、貧しい人々には、富める人々のように過去をもつの権利がないから。彼らは一軒の家をも、おのれの思い出を匿《かくま》うべき一隅の場所をも、もってはいない。彼らの喜び、彼らの苦しみ、彼らの日々はすべて、風のまにまに吹き散らされている。

 翌日、二人は激しい雨を冒して、見すぼらしい道具を新しい住居へ運んでいった。老家具商のフィシェルは、荷車と小馬とを貸してくれた。自分でもやって来て手伝ってくれた。しかし二人は道具をすべてもって行くことができなかった。こんどの住居は前のよりはるかに狭かったからである。最も古い最も不用な品々は置いてゆくように、クリストフは母に決心させなければならなかった。それは容易ではなかった。ごくつまらない物も彼女にとっては大事だった。跛足のテーブルも、こわれた椅子《いす》も、何物をも彼女は犠牲にしたくなかった。フィシェルも祖父と古くから親しくしていたので押しがきくところから、クリストフと口をそろえて、小言を言わなければならなかった。そして元来人がよく、また彼女の苦しみがよくわかっていたから、それらの大事なこわれ物の若干は、彼女がまた取りに来ることのできる日まで保管しておいてやると、約束しなければならなかった。すると彼女はようやく、胸が張り裂けるような思いをしながら、それを手離すことに承知した。
 二人の弟には、前もって引越のことを知らしておいた。しかしエルンストは前日、来られないと言いに来た。ロドルフは午《ひる》ごろちょっと姿を見せただけだった。道具が馬車に積まれるのをながめ、少しばかり世話をやいて、忙しそうに帰って行った。
 一同は泥濘《ねかるみ》の街路を進みだした。ねちねちした舗石の上にすべりがちな馬を、クリストフは手綱でとらえていた。ルイザは息子《むすこ》と並んで歩きながら、彼を雨にあてまいとした。その次には、湿っぽい部屋《へや》の中に身を落ちつける侘《わ》びしい仕事があった。低い空の蒼白《あおじろ》い反映のために、部屋はいっそう陰鬱になっていた。家主一家の者が種々注意してくれなかったら、二人は重くのしかかってくる落胆の情に抵抗することができなかったろう。馬車は帰ってしまい、道具は室の中にごたごた積み重ねてあり、夜になりかかってはいるしするので、クリストフとルイザとは、一人は箱の上に、一人は袋の上に、疲れはててがっかりして腰を降ろしていたが、その時階段に、小さな空咳《からせき》が聞こえた。扉《とびら》をたたく音がした。オイレル老人がはいって来た。親愛なる借家人たちの邪魔をするのをていねいに詫《わ》びて、それから、よくやって来てくれたその最初の晩を祝うために、家の者といっしょに親しく晩餐《ばんさん》を共にしてほしいと言い添えた。ルイザは悲しみに沈んでいて、断りたいと思った。クリストフもまた、その内輪の会合にあまり気が進まなかった。しかし老人はたって勧めた。でクリストフは、新しい家の最初の晩を悲しい考えにふけってばかり過ごすのは、母にとってよくないと考えて、彼女に無理に承諾さした。
 二人は階下《した》に降りて行った。そこには一家の者が皆集まっていた。老人、その娘、婿のフォーゲル、クリストフより少し年下の男女の二人の孫。皆彼らを取り巻いて、よく来てくれたと言い、疲れてやしないかと尋ね、部屋《へや》は気に入ったか、用はないか、などと種々なことを尋ねた。そして皆が一度に口をきくので、クリストフはまごついてしまって、何が何やらわからなかった。もうスープが出ていた。彼らは食卓についた。しかし騒々しい話はなおつづいた。オイレルの娘のアマリアは、その近所の特別な事柄、町内の地形、自分の家の習慣や特徴、牛乳屋が通る時刻、彼女が起き上る時刻、種々な用達人や支払いの値段、などをすぐルイザに知らせ始めた。すっかり説明しつくしてしまわないうちは、彼女を許さなかった。ルイザはうとうとしながら、それらの説明に気を向けてるふうを示そうとつとめた。しかし彼女がしいて口に出す言葉は、何にも了解していないことを示すものばかりで、そのためアマリアは苛立《いらだ》った声をたてて、なおいっそうくどくどとしゃべってきかした。老書記のオイレルは、音楽家生活の困難なことをクリストフに説明していた。アマリアの娘のローザは、クリストフの一方に並んですわっていたが、食事の初めからのべつに、息をつく隙《ひま》もないほどべらべらしゃべっていた。文句の途中で息を切らしながら、すぐにまたしゃべりだした。フォーゲルは陰気な顔をして、食物の不平を言っていた。そしてこの問題が、激しい議論の種となった。アマリアもオイレルも娘も、話をやめてその議論に加わった。シチューの中に塩が多すぎるか足りないかということについて、はてしない争論がもち上った。皆たがいに尋ね合ったが、同じ意見は一つもなかった。各自に隣りの者の味覚を軽蔑《けいべつ》して、自分の味覚だけが正当で健全であると思っていた。「最後の審判」の日までもその議論はつづくかと思われた。
 しかしついに、天気の悪さをいっしょに嘆くことに、皆折合いがついた。彼らはルイザとクリストフとの苦しみを親切に気の毒がってくれ、クリストフが感動したほどやさしい言葉で、二人の勇気ある行いを誉《ほ》めてくれた。ただにその借家人たちの不幸ばかりではなく、自分たちの不幸や、友人やすべての知人らの不幸をも、満足げにもち出した。そして善人は常に不幸で利己主義者や不正直な者らにしか喜びはないものだということに、彼らの意見は一致した。その結論としては、生活は悲しいものだということ、生活はなんの役にもたたないということ、苦しむために生きるよりも、もとより神の思召には適《かな》わないが、死んだ方がずっとましであるということ、などであった。そういう考えは、クリストフの現在の悲観説に近いものだったので、彼はその家主たちにいっそう敬意をいだいて、その些細《ささい》な欠点には眼をつぶってやった。
 彼と母とは、散らかった室にまた上ってゆくと、悲しいがっかりした気持を覚えたが、しかし前ほど孤独な気はしなかった。そしてクリストフは、疲労と町内の騒々しさとに眠られないで、夜のうちに眼を開きながら、壁を震わす重い馬車の響きや、下の階に眠ってる一家の者の寝息などを聞きつつ、一方では、自分と同じように苦しんでいて、自分を理解しているらしく、また自分も向うを理解できるように思われる、それらの善良な――実を言えば多少煩わしい――人々の間にあって、幸福ではないまでも、前ほど不幸ではないだろうと、しいて思い込もうとした。
 しかし彼は、ついにうとうとしたかと思うと、夜明けごろから不快にも眼をさまさせられた。議論を始めた隣りの人たちの声が響いたし、中庭や階段をやたらに水を注いで洗うために、猛烈に動かされているポンプのきしる音が、響いたからであった。

 ユスツス・オイレルは、背のかがんだ小さな老人で、落着きのない陰気な眼をし、皺《しわ》寄ったでこぼこの赤ら顔で、頤《あご》は歯がぬけ、手入れの
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