に合わなかったからである……。
しかし彼は十分も彼女と離れていれば、もうすっかり不快なことを忘れてしまうのだった。そして新しい希望と幻影とをいだいて、アーダのところへもどっていった。彼は彼女を愛していた。愛は不断の信仰の行為である。神が存在しようとすまいと、そんなことはほとんど構わない。信ずるから信ずるのだ。愛するから愛するのだ。多くの理由を要しない!……
クリストフがフォーゲル一家の者と喧嘩《けんか》してからは、その同じ家に住んでることができなくなったので、ルイザは余儀なく、息子《むすこ》と自分とのために他の住居を捜して引移った。
ある日、クリストフの末弟のエルンストが、ふいに家へ帰って来た。だいぶ前から消息不明になっていたのだった。何かをやるたびごとに、相次いで追い出されて、なんらの職をももっていなかった。財布は空《から》であり、健康は害されていた。それで彼は、いったん古巣へ立ちもどって、新たに出直すがいいと考えたのだった。
エルンストは、二人の兄とはどちらとも、仲が悪くなかった。二人からあまり敬重されてはいず、自分でもそれを知っていた。しかしそんなことはどうでもいいことだったので、別に恨みもしなかった。二人もまた彼を憎んではいなかった。憎んでも無駄だったろう。どんなことを言ってやっても、皆彼からすべり落ちて少しも刃が立たなかった。彼は媚《こび》を含んだ美しい眼で微笑《ほほえ》み、つとめて悔悟の様子を装い、他のことを考え、首肯し、感謝し、そしてしまいにはいつも、兄のどちらかから金をしぼり取っていた。クリストフは心ならずも、この道化た愛敬者に愛情をいだいていた。彼の顔だちは、クリストフと同じく、否より以上に、父のメルキオルに似ていた。クリストフと同様に背が高く頑丈《がんじょう》であって、整った顔つき、淡懐な様子、澄んだ眼、真直な鼻、にこやかな口、美しい歯、愛想のいい態度、をもっていた。クリストフは彼を見ると、心が解けてしまって、前から用意しておいた小言も半分しか言えなかった。自分と同じ血を分け、少くとも容姿の点では自分の名誉となる、その美しい少年にたいして、クリストフは本来、一種親愛の情を感じていた。悪い奴だとは思っていなかった。それにエルンストは決して馬鹿ではなかった。教養はなかったが、才智がないではなかった。精神的な事柄に興味を覚え得ないでもなかった。音楽を聞くと愉快を感じていた。兄の音楽を理解してはいなかったが、それを物珍しそうに聴《き》いていた。クリストフは身内の者の同情に甘やかされたことがなかったので、自分の音楽会にときおり弟の姿を見つけると喜んでいた。
しかしエルンストの主な才能は、二人の兄の性質を知りぬいてることと、二人を巧みにあやなすこととであった。クリストフはエルンストの利己心と冷淡とを知り、エルンストが必要な時にしか母や自分のことを考えないと知っていても、いつもその愛情を含んだ素振りに陥れられて、何事でも拒むことは滅多になかった。クリストフは彼の方を、も一人の弟のロドルフよりもずっと好んでいた。ロドルフは端正謹直で、事務に勉励し、徳義心が強く、金を求めることもなく、また金を与えることもなく、毎日曜日には几帳面《きちょうめん》に母に会いに来、一時間留って、自分のことばかりしゃべり、勝手な熱を吹き、自分の家やまた自分に関することはなんでも自慢をし、他人のことは尋ねもせず、また興味も覚えず、そして時間が鳴ると、義務を果したことに満足して、立去ってゆくのであった。こんな人物をこそクリストフは我慢ができなかった。ロドルフが来る時間には、外出するようにしていた。ロドルフはクリストフをねたんでいた。彼は芸術家をすべて軽蔑《けいべつ》していて、クリストフの成功を苦々しく思っていた。それでも彼は、自分の出入する商人間におけるちょっとした評判を、利用せずにはおかなかった。しかしかつて、母にもクリストフにも、それを一言ももらしたことがなかった。クリストフの成功を知らないようなふうをしていた。それに引代え、クリストフに起こった不快な出来事は、些細《ささい》なことまでも皆知っていた。クリストフはそういう下らなさを軽蔑して、さらに気づかないふうを装っていた。しかし彼がもし知ったら平気でおられなかったろうことであるが、そして実際思ってもみなかったことであるが、彼に不利なロドルフの知識の一部分は、エルンストから来たものであった。この狡猾《こうかつ》な少年は、クリストフとロドルフとの違いをよく見分けていた。もちろん、クリストフのすぐれてることはよく認めていたし、彼の廉潔さにたいして多少皮肉な一種の同情さえいだいてるようだった。しかし彼はそれを利用することをはばからなかった。また、ロドルフの悪い感情を軽蔑《けいべつ》しながらも、
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