。何かの当てがない以上は彼女が決して許されそうもないそれらの訪問や長い談話を、一家の者は、またアマリアさえ、明らかに許可していたではないか。ローザも家の者らと同意見ではなかったであろうか。ローザの同情がまったく誠実なもので私念のこもったものではないということを、彼は信ずることができなかった。
 しかるに、ローザはもとよりそういう心ではなかった。彼女はクリストフを心から気の毒がっていた。クリストフを通じてザビーネを愛せんがために、彼の眼で彼女を見ようとつとめていた。以前彼女にたいしていだいていた悪い感情をきびしくみずからとがめて、晩に祈りをするおりに彼女の許しを願っていた。しかしローザは、忘れることができたであろうか、自分が生きてることを、始終クリストフに会ってることを、彼を愛してることを、もはやも一人の女を恐れるに及ばないことを、も一人の女は消え失せてしまったことを、その思い出さえもやはり消え失せるだろうということを、自分一人残ってるということを、そしていつかは……ということを。自分の悲しみの最中に、自分の悲しみとなる愛する人の悲しみの最中に、突然の喜ばしい挙動を、不条理な希望を、押えることができたであろうか。ローザはあとでそれをみずからとがめた。それは一|閃《せん》にすぎなかった。それでも十分だった。彼はそれを見てとった。彼は彼女がぞっとするような眼つきを注いだ。彼女はその中に憎悪《ぞうお》の気持を読みとった。あの女《ひと》が死んだのに彼女が生きてることを、彼は恨んでいた。
 粉屋はその馬車を連れて、ザビーネのわずかな道具を取りに来た。クリストフが出稽古《でげいこ》からもどって来て見ると、寝台、箪笥《たんす》、蒲団《ふとん》、衣類、すべて彼女の所有であったものが、すべて彼女のあとに残ってたものが、家の前の街路に並べられていた。彼には見るに堪えない光景であった。彼は急いで通りすぎた。玄関でベルトルトに出会った。ベルトルトは彼を引止めた。
「ああ、あなた。」と彼は言いながらクリストフの手を心こめて握りしめた。「ごいっしょだったあのころには、こんなことになろうとはだれも思いもしませんでしたね。あの時は愉快でした。それでもあの日から、水の上を漕《こ》ぎ回ったあの時から、悪くなりだしたんですよ。だが結局、愚痴をこぼしたってなんの役にもたちません。死んでしまったんです。この次はわれわれの番でしょう。世の中はそうしたもんです。……そしてあなたは、いかがです? 私はまあおかげさまで、至って丈夫です。」
 彼は赤い顔色をし、汗をかき、酒の匂いをさしていた。この男が彼女の兄であり、彼女の思い出に権利をもってるかと思うと、クリストフの心は傷つけられた。愛する者のことをその男の口から聞くのが苦しかった。これに反して粉屋の方は、ザビーネの話ができる知人を見出したのがうれしかった。彼はクリストフの冷淡の訳がわからなかった。自分がそこにいること、あの農家の一日のことを突然もち出したこと、重々しく呼び起こしてる楽しい思い出、地面に散らかっていて話の間に足で押しやられてるザビーネの憐れな遺品、そういうものがクリストフの心の中の苦しみをかきまわそうとは、彼は夢にも思わなかったのである。しかしザビーネの名前がちょっと彼の口に上ってさえ、クリストフは胸裂ける思いをした。彼はベルトルトを黙らせる口実を捜した。彼は階段を上りかけた。しかし相手は彼にくっついて来、階段の途中で彼を引止め、話をつづけた。そしてついに、ある種の人々が、ことに下層の人々が、病気のことを話すおりに見出す不思議な楽しみをもって、聞きづらい細かな事柄をもやたらにもち出して、ザビーネの病気を語り出した時、クリストフはもう我慢ができなかった。(彼は切ない声をたてまいとしてじっと身を堅くしていた。)彼はきっぱりと相手の言葉をさえぎった。
「御免ください。」と彼は氷のような冷淡さで言った。「これで失礼します。」
 彼はその外の挨拶《あいさつ》もせずに別れた。
 そういう無情な態度に、粉屋は反感を覚えた。彼は妹とクリストフとの間のひそかな愛情を察していないではなかった。そして今クリストフがそういう無関心さを示したのが、彼には奇怪なことに思われた。クリストフは少しも人情のない奴《やつ》だと彼は判断した。
 クリストフは居室に逃げ込んだ。胸苦しかった。引越騒ぎのつづいてる間、もう外に出なかった。彼は窓からのぞくまいとみずから誓った。しかしのぞかないではおられなかった。窓掛の後ろの片隅《かたすみ》に隠れて、なつかしい衣類がもち出されるのを見送った。それらがなくなってゆくのを見ると、彼は往来に駆け出そうとし、「いえいえ、私に残していってください、もっていってはいけません」と叫ぼうとした。彼は彼女を全部奪われないために
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