していて、この七月の麗わしい日に、ちょうど今ごろは野を散歩してるだろうと思うと、しかも自分は、口やかましい母の傍らに、山のように堆《うずたか》い繕《つくろ》い物とともに、室の中に閉じこもってるのに、と思うと、彼女は息がつまるような気がした。そして自分の自尊心をのろった。ああ、もしまだ間に合うなら?……だが間に合ったとしても、やはり彼女は同じことだったろう……。
 粉屋は自分の腰掛馬車をやって、クリストフとザビーネとを迎えさした。二人は途中で、数人の招待客を乗せてやった。天気はさわやかでかわいていた。野の中の桜の実の赤い房が、うららかな太陽に輝いていた。ザビーネは微笑《ほほえ》んでいた。その蒼ざめた顔は、清新な空気のため薔薇《ばら》色になっていた。クリストフは膝《ひざ》の上に女の子をのせていた。二人はたがいに話そうとしなかった。だれ構わず隣の者に、そして何事にかかわらず、ただ話しかけた。そしてたがいの声を聞いて満足し、同じ馬車で運ばれてるのに満足した。人家や樹木や通行人などをたがいにさし示しては、子供らしい喜びの眼つきをかわした。ザビーネは田舎《いなか》が好きであった。しかしほとんど行ったことがなかった。不治の怠惰な性質のために、少しも散歩を試みなかった。もう満一年近くも町から出たことがなかった。それでちょっとした物を見ても面白がった。そんな物は、クリストフにとっては少しも目新しくなかった。しかし彼はザビーネを愛していた。そして愛する者の常として、彼女を通してすべてを見ていた。彼女の喜びの戦《おのの》きを一々感じ、さらに彼女の情緒を高まらしていた。彼は恋人と一つに溶け合いながら、自分の一身を挙げて彼女に与えきっていたのである。
 水車場へ着くと、農家の人たちや他の招待客が中庭に集まっていて、非常な大騒ぎで二人を迎えた。鶏や家鴨《あひる》や犬などが声を合わしていた。粉屋のベルトルトは、金色の髪で、頭も肩も四角張り、ザビーネが小柄なのと同じ程度に肥大で、快活な男だった。彼は小さな妹を両腕に抱き取り、こわれやしないか気づかってるかのようにそっと地面に降ろした。小さな妹は例のとおり、その大男を勝手に取扱い、しかも大男の兄は、彼女のむら気や無精や沢山の欠点を、口重々しく嘲《あざけ》りながらも、足に接吻《せっぷん》せんばかりに恭《うやうや》しく仕えていることを、クリストフは間もなく見て取った。彼女はそういうことに慣れていて、当然のことだと思っていた。当然のことだと思っていて、どんなことにも驚かなかった。彼女は愛されるためにもなんにもしなかった。彼女にとっては愛されるのがまったく自然のことらしかった。もし愛されなくとも彼女は平気だった。そのゆえにまただれでも彼女を愛した。
 クリストフはなおも一つ発見した。それは前のほど愉快なものではなかった。洗礼式はただに教母を仮定するばかりではなく、また教父をも仮定するものである。そして教父は教母にたいしてある権利をもってるもので、教母が年若くてきれいである時には、教父はたいていその権利を捨てるものではない。ところで、金髪の縮れた耳輪をつけた一人の百姓が、笑いながらザビーネに近寄って、その両の頬《ほお》に接吻した時、クリストフはそれを見て、にわかに気がついた。そういうことを今まで忘れていたのは馬鹿であるし、それを気にかけるのはさらに馬鹿であると、彼は考えるどころかかえって、あたかもザビーネがその闇討《やみうち》にわざわざ自分を陥れたもののように、彼女を恨んだ。式のつづく間、彼女と別々になってると、彼の不機嫌《ふきげん》さはなお募ってきた。牧場の間をうねってゆく行列の中で、ザビーネは時々ふり向いて、彼の方にやさしい眼つきを送った。彼は見ないふりをしていた。彼女は彼が怒ってるのを感じ、その訳も察していた。しかしそれでも彼女はほとんど平気だった。かえって面白がっていた。もし愛する男とほんとうに仲違いをしても、たといそれに心痛を感じようとも、彼女は決してその誤解をとこうとは露ほどもつとめなかったろう。それはたいへん骨の折れることに相違なかった。どんなことでもついにはひとりでによくなってゆくものである……。
 食卓でクリストフは、粉屋の妻君と頬の赤い太った娘との間にすわった。彼はその娘に従ってミサに列して、その時は別に気にも止めなかったが、今少し見てやろうと思いついた。そして相当の容貌《ようぼう》だと思ったので、腹癒《はらい》せのために、わざとザビーネの注意をひくように、大声にちやほやした。彼はうまくザビーネの注意をひき得た。しかしザビーネは、どんなことにもまただれにも、嫉妬《しっと》を感ずるような女ではなかった。自分が愛されてさえおれば、その人がなお他の者を愛しようと、そんなことには無関心だった。腹をたてるどころ
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