オイレルも娘も、話をやめてその議論に加わった。シチューの中に塩が多すぎるか足りないかということについて、はてしない争論がもち上った。皆たがいに尋ね合ったが、同じ意見は一つもなかった。各自に隣りの者の味覚を軽蔑《けいべつ》して、自分の味覚だけが正当で健全であると思っていた。「最後の審判」の日までもその議論はつづくかと思われた。
 しかしついに、天気の悪さをいっしょに嘆くことに、皆折合いがついた。彼らはルイザとクリストフとの苦しみを親切に気の毒がってくれ、クリストフが感動したほどやさしい言葉で、二人の勇気ある行いを誉《ほ》めてくれた。ただにその借家人たちの不幸ばかりではなく、自分たちの不幸や、友人やすべての知人らの不幸をも、満足げにもち出した。そして善人は常に不幸で利己主義者や不正直な者らにしか喜びはないものだということに、彼らの意見は一致した。その結論としては、生活は悲しいものだということ、生活はなんの役にもたたないということ、苦しむために生きるよりも、もとより神の思召には適《かな》わないが、死んだ方がずっとましであるということ、などであった。そういう考えは、クリストフの現在の悲観説に近いものだったので、彼はその家主たちにいっそう敬意をいだいて、その些細《ささい》な欠点には眼をつぶってやった。
 彼と母とは、散らかった室にまた上ってゆくと、悲しいがっかりした気持を覚えたが、しかし前ほど孤独な気はしなかった。そしてクリストフは、疲労と町内の騒々しさとに眠られないで、夜のうちに眼を開きながら、壁を震わす重い馬車の響きや、下の階に眠ってる一家の者の寝息などを聞きつつ、一方では、自分と同じように苦しんでいて、自分を理解しているらしく、また自分も向うを理解できるように思われる、それらの善良な――実を言えば多少煩わしい――人々の間にあって、幸福ではないまでも、前ほど不幸ではないだろうと、しいて思い込もうとした。
 しかし彼は、ついにうとうとしたかと思うと、夜明けごろから不快にも眼をさまさせられた。議論を始めた隣りの人たちの声が響いたし、中庭や階段をやたらに水を注いで洗うために、猛烈に動かされているポンプのきしる音が、響いたからであった。

 ユスツス・オイレルは、背のかがんだ小さな老人で、落着きのない陰気な眼をし、皺《しわ》寄ったでこぼこの赤ら顔で、頤《あご》は歯がぬけ、手入れの
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