れを崇高なものだと思った。彼らはたがいの計画を言いかわした。将来は正劇《ドラマ》や歌曲集《リーデルクライス》などを書くことにした。彼らはたがいに賛嘆しあった。クリストフの音楽上の名声、その他彼の力、彼のやり方の豪胆さなどを、オットーは感嘆した。そしてクリストフは、オットーの優美さ、その態度の上品さ――すべてがこの世においては相対的である――またその博識などを、深く感じた。その知識こそ、彼に欠けてるもので、彼が渇望してるものであった。
 食事のためにぼんやりして、食卓に両|肱《ひじ》をつき、しみじみとした眼をしながら、二人はたがいに語りまた聞いていた。午後は過ぎていった。出かけなければならなかった。オットーは最後にも一度勇気を出して、勘定書を取ろうとした。しかしクリストフから荒い一|瞥《べつ》を受けると、そのまますくんでしまって、我《が》を通す望みも失った。クリストフはただ一つ心配なことがあった。持合せ以上の金額を請求されはすまいかということだった。もしそうなったら、オットーにうち明けるよりもむしろ、時計でも渡してしまうつもりだった。しかしそれまでにしないでもよかった。一月分の金を大方その食事に費やしてしまっただけで済んだ。
 二人はまた丘を降りていった。夕《ゆうべ》の影が樅《もみ》の林に広がり始めていた。林の梢《こずえ》はまだ薔薇《ばら》色の光の中に浮出していて、津波のような音をたてながら厳《おごそ》かに波動していた。一面に散り敷いた菫《すみれ》色の針葉が、足音を和らげた。二人とも黙っていた。クリストフは不思議なやさしい悶《もだ》えが心にしみ通るのを感じた。幸福であった。口をききたかった。悩みの情に胸苦しかった。彼はちょっと立止まった。オットーも同じく立止まった。すべてがひっそりしていた。蠅《はえ》の群がごく高く光の中に飛び回っていた。枯枝が一本落ちた。クリストフはオットーの手を握り、震える声で尋ねた。
「僕の友だちになってくれない?」
 オットーはつぶやいた。
「ああ。」
 彼らはたがいに手を握りしめた。胸は動悸《どうき》していた。顔を見合わすこともかろうじてであった。
 やがて彼らはまた歩き出した。二、三歩離れて歩いた。林の縁まで一言ももう言わなかった。彼らは自分自身と自分の不思議な感動とを恐れていた。足を早め、立止まりもせず、ついに木立の影から出てしまった。そこで彼らはほっと安心して、また手を取り合った。朗らかな夕暮に眺め入って、切れ切れの言葉で話した。
 船に乗ると、舳先《へさき》の方に、明るい影の中にすわって、なんでもない事柄を話そうとつとめた。しかし口にする言葉を耳には聞いていなかった。快い懶《ものう》さに浸されていた。話をする必要も、手を取り合う必要も、またたがいに見合わす必要さえも、感じなかった。たがいに接近していたのである。
 船がつく間ぎわに、彼らは次の日曜にまた会おうと約束した。クリストフはオットーを門口まで送って行った。ガスの光で、たがいにおずおずと微笑《ほほえ》んで、心をこめたさよなら[#「さよなら」に傍点]をつぶやき合った。別れるとほっとした。それほど彼らは、数時間の緊張した感情に、気疲れがしていたし、沈黙を破ろうとしてちょっとした言葉を発する骨折りに、気疲れがしていた。
 クリストフは夜の中を一人でもどって行った。「一人の友をもってる、一人の友をもってる!」と彼の心は歌っていた。何にも眼にはいらなかった。何にも耳に聞えなかった。他のことは何にも考えていなかった。
 家に帰るや否や、すぐに眠気がさしてきて、寝入ってしまった。しかしある固定観念に呼びさまされるかのように、夜中に二、三度眼をさました。そして「一人の友をもってる」とくり返しては、またすぐに眠りに入った。

 朝になると、すべてが夢のように彼には思われた。それが現実のことであるとみずから確かめるために、前日のことをごく些細《ささい》な点まで思い起こそうとした。音楽を教えてる間にも、なおその方にばかり気がひかれた。午後になってからも、管弦楽の試演の間非常にぼんやりしていたので、そこを出る時にはもう何をひいたのか覚えていなかった。
 家に帰ってみると、手紙が待ちうけていた。どこから来た手紙なのか考える要はなかった。自分の室にかけ込み、そこにとじこもって手紙を読んだ。水色の紙に、見分けにくい長めの丹念な手跡で書かれて、ごく几帳面《きちょうめん》な署名がついていた。

[#ここから2字下げ]
 親愛なるクリストフ君――わが畏敬《いけい》せる友、と呼んでよろしいでしょうか。
 ぼくは昨日の遊歩のことを非常に考えています。そしてぼくにたいする君の好意を、この上もなく感謝しています。君がされたすべてのことを、君の親切な言葉を、愉快な散歩を、りっぱな御馳走を、どんなにぼくはありがたく思っているでしょう! ただ、あの食事に君がたいへん金を費やされたことを、気にしているだけです。なんという素敵な一日だったでしょう! あの奇遇には何か天意がこもってはいなかったでしょうか。僕たちをいっしょに結びつけようと望んだのは、運命自身であるような気がします。日曜にまたお会いするのが、どんなにぼくは嬉しいでしょう! 宮廷音楽長の午餐《ごさん》に欠けられたについて、君にあまり不愉快なことが起こらないようにと、僕は希望しています。僕のために困るようなことになられたら、僕はどんなにか心苦しいでしょう!
 親愛なるクリストフ君、僕は永遠に君の忠実なる僕《しもべ》にして友であります。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]オットー・ディーネル
[#ここから3字下げ、折り返して5字下げ]
 二伸――日曜には、どうぞ僕の家へ誘いには来ないでください。もしおさしつかえなかったら、|御殿の園《シュロスガルテン》でお会いできれば仕合せです。
[#ここで字下げ終わり]

 クリストフは眼に涙を浮かべてその手紙を読んだ。彼は手紙に唇をあてた。大声に笑いだした。寝台の上に筋斗《とんぼがえり》をした。それからテーブルに駆けつけ、ペンを取って、すぐに返事を書こうとした。一分も待っておれなかった。しかし彼は書き慣れていなかった。心に満ちあふれてることをどう書き現わしていいかわからなかった。ペンで紙を裂き、インキで指を真黒にした。じれて足を踏みならした。ついには、言葉をむりにしぼり出し、五、六枚下書きした後に、四方八方に曲りくねった無格好な字で、ひどい綴《つづ》りの誤りをしながら、手紙を書くことができた。

[#ここから2字下げ]
 わが魂よ! 僕が君を愛してるのに、どうして感謝などと言うのか? 君を知る前ぼくはどんなに悲しく一人ぽっちだったか、君に言ったじゃないか。君の友情はぼくの最大の幸福なんだ。昨日、ぼくは嬉《うれ》しかった、ほんとに嬉しかった! 生まれて初めてのことだ。ぼくは君の手紙を読みながら、嬉し泣きに泣いた。そうだ、疑っちゃいけない、ぼくたちを近づけたのは運命だ。運命は大事をなしとげるために、ぼくたちが友だちになることを望んだのだ。友だち! なんという愉快な言葉だろう! とうとうぼくも一人の友をもつこととなったのか。ああ、君はもうぼくを捨てやしないだろうね。誠実でいてくれるだろうね。いつまでも、いつまでもだ!……いっしょに生長し、いっしょに勉強し、ぼくはぼくの音楽上の感興を、頭に浮かぶ奇怪な事柄を、君は君の知力と驚くべき知識を、二人で共有のものにするのは、どんなに愉快なことだろう! 君は実に種々なことを知ってる。ぼくは君のように頭のいい者を見たことがない。ぼくは時々心配になる。ぼくは君の友情を受くるに足りない者のような気がする。君はいかにも高尚で、ちゃんとでき上がっている。ぼくのような粗雑な者を愛してくれることを、ぼくはどんなに君に感謝してるだろう!……いやちがった。今言ったばかりだった。感謝なんてことを決して言ってはいけないんだ。友誼《ゆうぎ》においては、恩を受くる者も施す者もないんだ。ぼくは恩なんか甘受しない! ぼくたちはたがいに愛してるから、同等の者なんだ。君に会うのが待ち遠しくてたまらない。ぼくは君の家に誘いには行くまい、君がそれを好まないから。――だが、ほんとうを言えば、そういう用心をするわけがぼくにはわからない。――しかし君はぼくより賢い。たしかに何か理由があるんだろう……。
 ただ一言いっておくが、これからはもう金のことを言ってはいけない。ぼくは金が嫌いなんだ、言葉も実物も。ぼくは金持ちではないったって、友に御馳走《ごちそう》をするのに困るほどじゃない。そして、自分の持ってるものをすっかり友のためにささげるのが、ぼくの楽しみなんだ。君もそうするだろう。もしぼくに必要があったら、君は君の財産全部をぼくにくれてしまうだろうね。――しかしそんなことには決してなるまい。ぼくは丈夫な拳固《げんこ》と強い頭とをもってる。食べるだけのパンは常に得られるだろう。――日曜日にね!――ああ、一週間会えないのか! そして二日前にはぼくは君を少しも知らなかったんだね。どうしてぼくはこんなに長く君なしに生きていられたんだろう?
 楽長の奴、ぼくに苦情を言おうとしたよ。だが、ぼくはもちろんだが、君もそれを気にかけちゃいけない。ぼくにとって他人がなんだ! 他人がぼくのことをどう考えようと、将来どう考えることがあろうと、それをぼくは軽蔑しきってる。ぼくにとって大事なのは君ばかりだ。ぼくをよく愛してくれ、ぼくが君を愛するように君もぼくを愛してくれ! ぼくがどんなに君を愛してるか、言うこともできない。ぼくは爪先《つまさき》から眼の奥まで、すっかり君のものだ、君のもの、君のものだ。永久に君のものなんだ!
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]クリストフ

 クリストフはその週の間、待ち遠しさに苦しんだ。彼はいつもの道を通らないで、長い回り道をし、オットーの家のある方面を彷徨《ほうこう》した――彼に会おうと考えてるのではなかったが、しかし彼の家が見えると、それでもう感動しきって蒼《あお》くなったり赤くなったりした。木曜日にはもうたまらなくなって、初めのよりもっと熱烈な第二の手紙を送った。オットーは感傷的な返事をよこした。
 ついに日曜日が来た。オットーは会合の時間を正確に守った。しかしクリストフは、一時間も前から遊歩場で待ちながら、いらいらしていた。オットーの姿が見えないので苦しみ始めた。病気ではあるまいかと気をもんだ。なぜなら、オットーが自分との約を違《たが》えようとは少しも思わなかったから。彼はごく低くくり返した、「ああどうか、彼が来るように!」そして彼は細杖《ほそづえ》で、道の小石をたたいた。三度たたいて当たらなかったらオットーは来ない、しかしうまく当たったらオットーがすぐに現われるのだ、と考えていた。そしてごく念を入れてやったにもかかわらず、また容易なことではあったけれども、三度ともはずしてしまった。ところがちょうどその時、オットーの姿が眼にはいった。オットーはいつもの静かな落着いた歩き方でやって来た。彼はごく感動してる時でも常にきちんとしていたのである。クリストフは彼のそばに駆け寄り、乾ききった喉《のど》で今日はと言った。オットーも今日はと答えた。それから、天気がたいへんいいこと、また時間はちょうど十時五、六分、さもなければ、御殿の時計はいつも後《おく》れているので、十時十分くらいだろうということ、そんなこと以外にはもう何も言うべきことが見当たらなかった。
 彼らは停車場へ行き、町の人々の遠足地となってる次の停車場まで汽車に乗った。途中彼らは数言しか話ができなかった。能弁な眼付でそれを補おうとつとめたが、それもうまくゆかなかった。どんなに親しい友人同士であるかたがいに言いたく思いながら駄目《だめ》だった。彼らの眼はまったく何にも語らなかった。たがいに喜劇を演じていた。クリストフはそれに気づくと恥しくなった。一時間前に心を満たしていたあらゆることを、言うこともできなければ感ずるこ
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