らせると約束していた。彼はたえず、彼女らを迎えに行こうと待ちかまえていた。そしてかく帰りが遅れる理由を、種々思い迷った。
ある晩、隣りに住んでる人で、祖父の友であった家具商のフィシェルがいつもよくやるように、晩食後やって来て、メルキオル相手にパイプをふかしたり無駄話をしたりした。クリストフは配達夫の通るのを空しく待受けたあとで、憂いに沈みながらまた自分の室に上ってゆこうとした。その時、ふと聞いた一言に彼は震え上がった。翌朝早くケリッヒ家へ行って窓掛をつけなければならないと、フィシェルは言っていた。クリストフははっとして尋ねた。
「そんなら帰って来たんですか。」
「とぼけちゃいけない。お前だってよく知ってるじゃないか。」と老フィシェルはひやかし気味に言った。「だいぶ前のことだ。一昨日《おととい》帰って来てらあね。」
クリストフはもうそのうえ何にも耳にはいらなかった。彼は室から出て、出かける支度をした。母は先ほどからそっと彼の様子を窺《うかが》っていたが、廊下までついて来て、どこへ行くのかとおずおず尋ねた。彼は返辞もしないで出て行った。彼は苦しんでいた。
彼はケリッヒ家に駆け込んだ。夜の九時だった。彼女らは二人とも客間にいた。彼の姿を見ても別に驚いた様子はなかった。静かに今晩はと言った。ミンナは手紙を書いていたが、テーブルの上から彼に手を差出し、なお書きつづけながら、気乗りのしない様子で彼の消息を尋ねた。そのうえ、自分の失礼を詫《わ》び、彼の言葉に耳傾けてるふうをしていた。しかしちょっと彼の言葉をさえぎっては母に何か尋ねたりした。彼はその留守の間どんなに苦しんだか、それについて痛切な言葉を用意していた。けれどようやく数語をつぶやきえたばかりだった。だれも気を入れて聞いてくれず、彼は言いつづけるだけの元気もなかった。自分の言葉が妙に空《から》響きがした。
ミンナは手紙を終えると、編物を取り上げ、彼から数歩のところにすわって、旅の話を始めた。楽しく過ごした数週間、馬上の散歩のこと、別荘生活のこと、面白い交際社会のこと、などを話した。しだいに調子に乗って、クリストフの知らない出来事や人々の上に話を向け、母と彼女とはその追憶に笑いだした。クリストフはその話の中で、まったく圏外にいる心地がした。どういう顔付をしていいかもわからず、当惑したような様子で笑っていた。ミンナの顔から眼を離さず、恵みの一|瞥《べつ》を懇願していた。しかし彼女が彼を見る時――それもまれにであって、彼よりもむしろ母の方に話しかけていたが――彼女の眼はその声と同じく、愛嬌《あいきょう》はあるが心がこもっていなかった。彼女は母がいるので用心したのであろうか? 彼は彼女と二人きりで話がしたかった。しかしケリッヒ夫人は片時も彼らから離れなかった。彼は自分のことに話を向けようと試みた。自分の仕事や抱負のことを話した。ミンナが自分から逃げようとしてることを彼は感じた。そして彼女の心を引きつけようと努めた。実際彼女は、非常に注意して彼の言葉に耳傾けてるらしかった。彼の話に種々の感嘆詞を插《はさ》んだ。それはいつもうまくあてはまるとは言えなかったが、しかしその調子には心|惹《ひ》かれてるさまが現われていた。けれども、彼がそのあでやかな微笑《ほほえ》みに心酔って、また希望をいだき始めた時、ミンナが小さな手を口にあてて欠伸《あくび》をするのが眼にとまった。彼はぴたりと話をやめた。彼女は気がついて、疲れを口実に愛想よく言い訳をした。彼はまだ引止められることと思いながら立上がった。しかしだれもなんとも言ってくれなかった。彼はぐずぐず挨拶《あいさつ》を長引かし、明日また来るように言われるのを待った。がそれも問題にはならなかった。彼は帰って行かなければならなかった。ミンナは送っても来なかった。彼女は手を差出した――無関心な手を。それは彼の手の中に冷やかに託された。そして彼は客間の中で彼女と別れた。
彼は心おびえながら家にもどった。二か月以前のミンナは、彼のなつかしいミンナは、もう何一つ残っていなかった。何事が起こったのか? 彼女はどうなったのか? このあわれな少年は、生きた魂の、それも大部分は個々の魂ではなくて、たえず相次ぎ消え失せる一団の魂であるが、そういう生きた魂の不断の変化を、全部の消滅を、根本的の更新を、まだかつて経験したことがなかったので、彼にとっては、単純な事実もあまりに残酷であって、それを信じようと心をきめることができなかった。彼は恐れてその考えをしりぞけ、自分の方で見当違いをしたのであって、ミンナはやはり同じミンナであると、むりにも思い込もうとした。翌朝また彼女のところへ行って、ぜひとも話そうと、彼は決心した。
彼は眠らなかった。夜じゅう、柱時計の打つ音を一々数えた。ごく早朝から出かけて、ケリッヒ家のまわりを彷徨《さまよ》った。できるだけ早く中にはいって行った。まず眼についたのは、ミンナではなくて、ケリッヒ夫人であった。活動的で早起きの彼女は、ヴェランダの下の植木|鉢《ばち》に水差で水をやっていた。クリストフの姿を見つけると、嘲《あざけ》り気味の叫びをあげた。
「あら、」と彼女は言った、「あなたでしたか!……ちょうどいい時でした、あなたにお話したいことがあります。待ってください、待ってください……。」
彼女はちょっと家の中にはいり、水差を置いて手を拭《ふ》き、またやって来て、不幸の迫ってるのを感じてるクリストフの狼狽《ろうばい》した顔を見ながら、ちょっと微笑を浮かべた。
「庭へまいりましょう、」と彼女は言った、「あちらの方が静かですから。」
自分の愛に満ちている庭の中へと、彼はケリッヒ夫人の後について行った。彼女は少年の当惑を面白がりながら、なかなか急には話そうとしなかった。
「あすこへすわりましょう。」とついに彼女は言った。
出発の前日ミンナが彼に唇を差出したあの腰掛の上に、二人はすわった。
「なんの話だかあなたにはおわかりでしょうね。」とケリッヒ夫人は言いながら、真面目《まじめ》な様子になって、彼をすっかり惑乱さしてしまった。「私は決してそうだとは信じられませんでした、クリストフさん。私はあなたを真面目な人だと思っていました。あなたをすっかり信用していました。それをよいことにして私の娘を引きくずそうとなさろうとは、考えもしませんでした。娘はあなたの保護のもとにありました。あなたは、娘に敬意をもち、私に敬意をもち、あなた自身にたいしても敬意をもたれるはずだったのです。」
その調子には軽い皮肉が交じっていた――ケリッヒ夫人はその子供たちの愛を少しも重大には考えていなかったのである――しかしクリストフはその皮肉を感じなかった。そして何事をも悲痛に解していたように、彼女の非難をも悲痛に解して、心を刺された。
「でも奥さん……でも奥さん……(彼は眼に涙を浮かべて口ごもった)……私はあなたの信用につけこんだのではありません。……どうかそんなことは考えないでください。……私は不正直な者ではありません、誓います。……私はミンナさんを愛しています、心から愛しています。ええ、結婚したいんです。」
ケリッヒ夫人は微笑《ほほえ》んだ。
「いけませんよ、お気の毒ですが、(彼女は親切らしく言ったが、ついに彼にもわかりかけたほどほんとうは人を馬鹿にしたものだった)そんなことができるものですか。子供の冗談でしょうよ。」
「なぜです? なぜですか?」と彼は尋ねた。
彼は彼女が真面目に言ってるのではないと思い、前よりやさしくなったその声にほとんど安心して、彼女の手をとった。彼女はなお微笑みつづけて言った。
「でもねえ。」
彼はせがんだ。彼女は皮肉な控目で――(彼女はまったく彼の言うことを真面目にはとっていなかった)――彼に財産がないことや、ミンナの趣味が違ってることなどを言った。彼は言い逆らって、それはなんでもないことで、自分は金持ちにも有名にもなろうし、名誉や金や、ミンナの欲するものはなんでも手に入れようと言い張った。ケリッヒ夫人は疑わしい様子を見せた。彼女はその自負《うぬぼれ》を面白がっていた。そしてただ首を振って打消した。彼はなおも強情を張り通した。
「いいえ、クリストフさん、」と彼女はきっぱりした調子で言った、「いいえ、議論の余地はありません。そんなことができるものですか。ただ財産のことばかりではありません。いろんなことですよ。……身分も……。」
彼女は言ってしまうに及ばなかった。それは彼の骨の髄までさし通す針であった。彼の眼は開けた。彼はやさしい微笑の皮肉さを見た。親切な眼付の冷たさを見た。実子のような愛情で自分が慕ってるこの婦人、母親のような態度で自分に接してくれてるらしいこの婦人、それと自分とを隔ててるすべてのものを、にわかに彼は了解した。彼女の愛情のうちにある庇護《ひご》と軽蔑《けいべつ》とのすべてを、彼は感じた。彼は真蒼《まっさお》になって立上がった。ケリッヒ夫人はなお愛撫《あいぶ》の声で、話しつづけていた。しかしもう万事が終っていた。彼の耳には、彼女の言葉も音楽のようには響かなくなった。その一語一語の下に、その優雅な魂の無情さが見抜かれた。彼は一言も答えることができなかった。彼は立去った。まわりのものが皆ぐるぐる回った。
彼は自分の室にもどると、寝台の上に身を投げだした。幼かったころのように、憤りと傲慢《ごうまん》な反抗心とのあまりに痙攣《けいれん》を起こした。喚《わめ》き声を人に聞かれないように、枕《まくら》に噛《か》みつき、口にハンケチを押し込んだ。彼はケリッヒ夫人を憎んだ。ミンナを憎んだ。猛然として彼女ら二人を蔑《さげす》んだ。横顔を打たれたような気がした。恥ずかしさと口惜《くや》しさとに身を震わした。返報をし直接行動をしなければならなかった。復讐《ふくしゅう》ができなければ生命をも投げ出したかった。
彼は起き上がって、馬鹿に乱暴な手紙を書いた。
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奥様
あなたが自分でおっしゃったように、私を思い違いしていられたかどうか、それは私の知るところでありません。しかし私の知ってることは、私があなたをひどく思い違いしていたということです。私はあなた方を自分の味方だと信じていました。あなたは自分でそうおっしゃっていらしたし、またそういう様子をしていらした。そして私は、自分の生命よりもいっそうあなたを愛していました。ところがそんなことは皆|嘘《うそ》であって、私にたいするあなたの愛情は欺瞞《ぎまん》にすぎなかったことを、私は今|覚《さと》りました。あなたは私を弄《もてあそ》んでいらした。私はあなたの慰みになり、あなたの気晴らしになり、音楽をひいてあげましたし――あなたの召使でありました。しかし今は、あなたの召使ではありません。だれの召使でもありません!
私にはあなたの令嬢を愛するの権利がないということを、あなたはきびしく私に覚《さと》らしてくださいました。しかし世に何物も、愛する者を愛する私の心を、妨げることはできません。私はあなたと同じ階級には属していないとしましても、あなたと同じく貴族であります。人間を貴《とうと》くするものは心です。私は伯爵《はくしゃく》ではないにしても、多くの伯爵以上の名誉を、おそらく自分のうちにもっています。従僕にしろ伯爵にしろ、私を侮辱する時には、私はそれを軽蔑します。魂の貴さを具えないなら、たとい貴族だと自称しても、私はそれを泥土《どろつち》のように軽蔑します。
さようなら! あなたは私を見誤りました。あなたは私を欺きました。私はあなたを蔑《さげす》みます。
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あなたの意に反してミンナ嬢を愛し、死ぬまでミンナ嬢を愛する者。――彼女は彼のものであり[#「彼女は彼のものであり」に傍点]、何物も彼より彼女を奪うことをえません。
[#ここで字下げ終わり]
彼はその手紙を郵便箱に投げ込むや否や、すぐに自分のしたことが恐ろしくなった。もうそれを考えまいとした。しかしある文
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