ろしく上下した。高熱の状態と貧血の状態とが、急激に移り変わった。身体が焼けるようになり、寒さに震え、悶《もだ》え苦しみ、喉《のど》がひきつり、首に塊《かたま》りができて呼吸を妨げた。――もとより彼の想像はおびえた。彼は自分の感ずることをことごとく家の者に語りえなかった。しかし一人でたえずそれを分析し、それに注意して、苦悩をますます大きくなし、また新しく作りだしていた。自分の知ってるあらゆる病気を、次から次へとわが身にあてはめた。盲目になりかけてるのだとも思った。歩きながら時々|眩暈《めまい》に襲われたので、突然倒れて死ぬのではないかと恐れた。――中途にしてやむ、若くして夭折《ようせつ》する、そういう恐ろしい心配が、いつも彼を悩まし、彼を圧迫し、彼につきまとっていた。ああ、どうせ死ななければならないものであるとしても、少なくとも、今はいやだ、勝利者とならないうちはいやだ!……
勝利……。みずからそれと知らずに、彼がたえず燃やしたてられてる、その固定観念! あらゆる嫌悪、あらゆる労苦、生活の腐爛せる沼沢《しょうたく》の中において、彼を支持している、その固定観念! 将来いかなるものになるかという、すでにいかなるものになってるかという、おぼろなしかも力強い意識!……彼は現在なんであるか? 管弦楽においてヴァイオリンをひき、凡庸な協奏曲《コンセルト》を書いている、病弱な神経質な一少年にすぎないのか?――否。そういう少年の域をはるかに脱しているのだ。それは表皮にすぎない、一時の顔貌《がんぼう》にすぎない。それは彼の本体ではない。彼の深い本体と、彼の顔や思想の現形との間には、なんらの関係も存しない。彼自身よくそれを知っている。鏡で見る姿を、おのれだとは認めていない。大きな赤ら顔、つき出た眉《まゆ》、くぼんだ小さな眼、小鼻がふくれ先が太い短い鼻、重々しい頤《あご》、むっつりした口、そういう醜く賤《いや》しい面貌は、彼自身にとっては他人である。彼はまた自分の作品中にはなおさらおのれを認めていない。彼は自分を判断し、現在自分が作ってるものの無価値と、現在の自分の無価値とを、よく知っている。けれども彼は、将来いかなるものになるか、将来いかなるものを作るか、それに確信をもっている。彼は時おりその確信を、高慢から出る虚妄《きょもう》として、みずからとがめる。そしてみずから罰せんがために、苦々《にがにが》しくおのれを卑下しおのれを苛責《かしゃく》して、喜びとする。しかし確信は存続し、何物からも動かされない。いかなることをなし、いかなることを考えようとも、そのいずれの思想も行為も作品も、完全におのれを含有しおのれを表現してはいない。彼はそれを知っている。彼は不思議な感情をいだいている。自分の最も多くは、現在あるがままの自分ではなくて、明日あるだろう[#「明日あるだろう」に傍点]ところの自分であると。……きっとなってみせる[#「きっとなってみせる」に傍点]!……彼はそういう信念に燃えたち、そういう光明に酔っている。ああ、今日[#「今日」に傍点]によって中途に引止められさえしなければ! 今日[#「今日」に傍点]によって足下にたえず張られてる陰険な罠《わな》へ陥《おちい》って蹉跌《さてつ》することさえないならば!
かくて彼は、日々《にちにち》の波を分けておのれの小舟を進めながら、側目《わきめ》もふらず、じっと舵《かじ》を握りしめ、目的の方へ眼を見据えている。饒舌《じょうぜつ》な楽員らの中に交って管弦楽団の席にいる時にも、家の者にとり巻かれて食卓についている時にも、高貴な愚人たちの慰みのために楽曲のいかんに構わず演奏しながら宮邸にいる時にも、彼が生きているのは、このおぼつかなき未来の中にである、一原子のために永久に崩壊されるやもしれない――それは構うところでない――この未来の中に、そこにこそ彼は生きているのである。
彼は屋根裏の室で、ただ一人、自分の古いピアノに向かっている。夜になろうとしている。消えかかった昼の光が、楽譜帳の上に流れている。光の最後の一滴があるまでは、彼は眼を痛めながら読んでいる。消え去った偉大な心の愛が、黙々たるそれらのページから発散して、やさしく彼のうちに沁《し》み通ってくる。彼の眼には涙があふれる。なつかしいだれかが後ろに立っていて、その息で頬《ほお》をなでられ、今にも両腕で首を抱かれる、かと思われる。彼は身を震わしてふり返る。自分一人きりでないことを、感じまた知っている。愛し愛されてる一つの魂が、すぐそばにそこにいる。それをとらええないで、彼は嘆息する。それでも、その憂苦の影は、彼の恍惚《こうこつ》たる情に交じって、ある秘めやかな快さをなおもっている。悲しみさえも今は晴れやかである。愛する楽匠らのことを、消え去った天才らのことを、
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