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クリストフは狼狽《ろうばい》して出て行った。
「クリストフさん、気を悪くしてはいけないよ。」とふたたび彼が事務所を通りぬける時に役人が親しげに言った。クリストフは眼をあげる元気もなく、引止められて握手をされるままになっていた。
彼は宮邸の外に出た。恥ずかしさに縮み上がっていた。言われたことが残らず頭に浮かんできた。そして、自分を立ててくれ自分を気の毒に思ってくれる人々の憐憫《れんびん》の中に、侮辱的な皮肉が感ぜられるような気がした。彼は家に帰った。ルイザから問いかけられても、今なして来た事柄について彼女を恨んでるかのように、ただむっとした二三言でようやく答えるきりだった。父のことを考えると、後悔の念に胸が張りさけそうだった。すっかり父にうち明けて、その許しを乞《こ》いたかった。メルキオルはそこにいなかった。クリストフは眠りもしないで、真夜中まで彼を待っていた。父のことを考えれば考えるほど、ますます後悔の念は高まってきた。彼は父を理想化していた。家の者らに裏切られた、弱い、善良な、不幸な人間だと、頭に描いていた。父の足音が階段に聞こえると、出迎えてその両腕の中に身を投げ出すために、寝床から飛び起きて走っていった。しかしメルキオルはいかにも厭な泥酔の様子でもどって来たので、クリストフは近寄るだけの勇気もなかった。そして自分の空《くう》な考えを苦々《にがにが》しく嘲《あざけ》りながら、また寝に行った。
数日の後、その出来事を知ると、メルキオルは恐ろしい忿怒《ふんぬ》にとらわれた。そしていかにクリストフが願っても聞き入れないで、宮邸に怒鳴り込んでいった。しかしすっかりしょげきってもどって来、どういうことがあったか一言もいわなかった。彼はひどい取扱いを受けたのだった。どの口でそんなことが言えるか――息子の技倆を考えてやればこそ給料を元どおり与えてるのであって、将来わずかな不品行の噂《うわさ》でもあれば給料は全部取り上げてしまうと、言われたのだった。で彼はその日からただちに自分の地位を是認し、みずから進んで犠牲[#「犠牲」に傍点]となってることを自慢にさえした。そういう父の様子を見て、クリストフはたいへん安堵《あんど》した。
それにもかかわらずメルキオルは、妻や子供らのために剥《は》ぎ取られてしまい、生涯彼らのために痩《や》せ衰え、今や万事に不自由しても顧みられないなどと、よそへ行って嘆かずにはおかなかった。あるいはまたクリストフから金を引出そうとつとめて、あらゆる阿諛《あゆ》や策略を用いた。それを見るとクリストフは、心にもなく笑いだしたくなるほどだった。そしてクリストフがしっかりしてるので、メルキオルは言い張りはしなかった。自分を判断してるその十四歳の少年の厳格な眼の前に出ると、不思議に気圧《けお》されるのを感じた。悪い手段をめぐらしてひそかに意趣晴しをした。酒場へ行って飲んだり食ったりした。金は少しも払わないで、息子が借りをみな払ってくれるのだと言った。クリストフは世間の悪評をつのらしはすまいかと気遣って、別に抗議をもち出さなかった。そしてルイザとともに、財布の底をはたいてメルキオルの借りを払っていた。――ついにメルキオルは、給料を手にしなくなってからは、ヴァィオリニストの職務をますます等閑《なおざり》にするようになった。そして欠勤があまり激しくなったので、クリストフの懇願にもかかわらず、しまいには追い払われてしまった。それで子供は、父と弟どもなど全家を、一人で支持してゆかなければならなくなった。
かくてクリストフは、十四歳にして家長となった。
彼は決然としてその重い役目を引受けた。彼は自尊心から、他人の恵みに与《あずか》ることを拒んだ。独力できりぬけてゆこうと決心した。母が恥ずかしい施与《せよ》を受けたり求めたりしてるのを見て、彼は幼いころから非常に心を痛めていた。人のいい母が、保護者のもとから何かの恵みを受けて、得意然と家にもどって来ると、いつもそれが争論の種となった。彼女はそれを少しも悪いことだとは思わなかったし、またその金で、少しでもクリストフの骨折りを省《はぶ》くことができ、粗末な夕食に一|皿《さら》多く加えることができるのを、喜びとしていた。しかしクリストフは顔を曇らした。その晩じゅう口をきかなかった。そういうふうにして得られた食物へは、理由も言わないで手をつけることを拒んだ。ルイザは気をもんだ。下手《したで》に息子を説きすすめて食べさせようとした。彼は強情を張った。彼女はついにいらだってきて、不愉快なことを口にのぼせた。彼もそれに言い返してやった。それから彼はナプキンを食卓の上に投げすてて出て行った。父は肩をそびやかして、彼を生意気な奴だと言った。弟らは彼を嘲《あざけ》って、彼の分をも食べてしまった。
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