けい》なような気がして、自尊心が傷つけられるのだったから。
それから彼はピアノについた。そして馬鹿者ども――そう彼は賓客らを判断していた――のために演奏しなければならなかった。そして時々、周囲の人々の無関心さに不快を感じて、楽曲の真中でぴたりとやめたいほどだった。まわりに空気が不足していた。窒息するかと思われた。演奏が済むと、うるさくお世辞を言われ、一人一人に紹介された。大公爵の動物園の中の珍しい動物のように人々から見做《みな》されてる、と彼は考え、賛辞は自分へよりもむしろ大公爵へ向けられてる、と考えていた。自分がいかにも卑しめられたような気がし、病的なほど邪推深くなって、それを態度に示し得ないだけになおさら苦しんだ。ちょっとした他人の挙動にも、侮辱を見てとった。客間の隅で笑ってる者があれば、自分についてだと考えた。そして嘲《あざけ》られてるのは、自分の様子か、服装か、顔付か、足か、手か、いずれともわからなかった。すべてが屈辱の種となった。話しかけられなくても、話しかけられても、子供みたいにボンボンをもらっても、みな屈辱を感じた。とくに、大公爵が大様《おおよう》な無頓着《むとんじゃく》さで、彼の手に金貨を握らして帰してやる時に、彼はひどく屈辱を受けた。貧乏なのが、貧乏らしく取扱われるのが、悲しかった。ある晩、家へ帰る途中、もらって来た金を非常に重苦しく感じて、通りがかりにある穴倉の風窓へそれを投げ込んでしまった。けれどもすぐ後で、賤《いや》しい真似《まね》をしてそれをまた拾い取らなければならなかった。なぜなら、家では肉屋に数か月分の借りがあったから。
家の人々は彼のそういう自尊心の苦しみにほとんど気づかなかった。彼らは彼にたいする大公爵の愛顧に歎喜[#「歎喜」はママ]していた。人のいいルイザは、宮廷における貴顕社会の夜会に出ることが、息子にとってはこの上もなく晴れやかなことだと思っていた。メルキオルは、それを友人ら相手にたえず自慢話の種としていた。しかし最も嬉しがっているのは祖父だった。独立独歩と、不平家気質と、偉大にたいする軽蔑とを、彼はよく装っていたけれども、しかも富や、権勢や、名誉や、社会的優越にたいして、質朴《しつぼく》な賛嘆の情をもっていた。彼が無類の誇りとなすところのものは、そういう優越を有してる人々に孫が近づくのを見ることだった。あたかもその光栄が自分の上にも光被《こうひ》してくるかのように楽しんでいた。そしていくら平然と構えていようとしても、顔が輝いていた。クリストフが宮邸へ行った晩には、いつもジャン・ミシェル老人は、なんらかの口実を設けてルイザのところに留っていた。子供らしくやきもきしながら、孫の帰りを待っていた。そしてクリストフがもどってくると、何気ないふうでまず彼に言葉をかけた。つまらない問いのこともあった。
「どうだい、今夜はうまくいったかい。」
あるいは、わざとらしい遠回しの言葉のこともあった。
「さあクリストフ坊やのお帰りだ、何か珍しいことを話してくれるだろう。」
あるいは、おだてるためのうまいお世辞のこともあった。
「家の若様、おめでとう!」
しかしクリストフは、むっとして苛立《いらだ》っていて、ごく冷やかに「今晩は!」と一言|挨拶《あいさつ》を返すばかりで、隅の方へ行って口をとがらすのであった。老人はしつこく言い寄って、いっそう明らさまな問いをかけたが、子供はただはいとかいいえとか答えるばかりだった。他の者もいっしょになって、種々こまかなことを尋ねだした。クリストフはますます顔をしかめた。むり強《じ》いに返事をさせなければならなかった。しまいには、ジャン・ミシェルはじれて腹をたてて、侮辱的な言葉を発した。クリストフはあまり敬意のこもらない言葉で言い返した。そしてついには露骨な反感となった。老人は扉《とびら》をばたりとしめて帰って行った。かくてクリストフは、それらあわれな人々の喜びをそこなってしまうのだった。彼らには彼の不機嫌《ふきげん》なわけが少しもわからなかった。彼らは従僕的な魂の者であるとはいえ、それは彼らの罪ではなかった。自分らと異なった気質の者もいるということを彼らは思いもつかなかった。
クリストフは自分自身のうちに沈潜していった。そして家の者らを批判しなくても、自分と彼らとを隔つる溝渠《みぞ》を感じていた。彼は確かにそれを誇張して見ていたであろう。たとい思想は異なっていても、彼がもしうち明けて話すことができたら、おそらく彼らから理解せられたかもしれない。しかしながら、親と子とが最もやさしい愛情をたがいにもってる時でさえも、両者の間の絶対の親和ほどむずかしいものはない。一方では、敬意があるので、心の中をうち明けようという勇気がくじかれる。他方では、年齢と経験とにおいて優《まさ
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