、靴を手に取った。息を凝らしながら、野蛮人のような狡猾《こうかつ》さで四つ這《ば》いになって、往来に向かってる台所の窓のところまでやって行った。そこにあるテーブルの上に上った。向うからゴットフリートが、彼を肩に受け取った。そして二人は、小学校の子供のように喜びながら、出かけてゆくのだった。
 時とすると彼らは、ゼレミーを捜しに行くこともあった。ゼレミーは漁夫で、ゴットフリートと仲良しだった。三人は月の光を頼りに、その小舟に乗って走った。櫂《かい》からしたたる水は、ささやかな琶音《アルペジオ》や半音階を奏した。乳色の靄《もや》が河の面《おも》に揺れていた。星がふるえていた。鶏が両岸で鳴きかわしていた。時とすると、月の光に欺かれて地から舞い上がった雲雀《ひばり》の顫律《トリロ》が、空の深みに聞えることもあった。皆黙っていた。やがてゴットフリートはある歌の節《ふし》をごく低く歌った。ゼレミーは動物の生活の不思議な話をきかした。簡単な謎《なぞ》のような調子で言われるので、なおその話が不思議に思われた。月は森の後ろに隠れてしまった。一同は丘陵の仄《ほの》暗い段々に沿って進んだ。空と水との闇《やみ》が溶け合っていた。河には波の襞《ひだ》もなかった。あらゆる物音が消え去っていた。舟は夜の中を滑っていった。いや、滑っているのか、浮かんでいるのか、じっと動かないでいるのか?……葦《あし》は絹ずれのそよぎで開いていった。音もなく岸についた。地に降りて、歩いて帰った。夜明けにしかもどらないこともあった。いつも河の縁をたどった。麦穂のような緑色や宝石のような青色をした白銀魚の群が、黎明の光にうごめいていた。パンを投げてやると、むさぼるように飛びついてきて、メデューサの頭の蛇《へび》みたいに動き回った。パンが沈むに従って、そのまわりに降りていって、螺旋《らせん》状に回り、次には、光線のようにすっと消えてしまった。河は薔薇《ばら》色と葵《あおい》色との反映に染められていた。小鳥は次から次へと眼をさましてきた。彼は急いで帰っていった。出かける時と同じように用心をして、空気の重苦しい室にもどり、寝床にはいった。クリストフは眠気がさして、野の匂いの沁《し》みたさわやかな身体のまま、すぐに眠るのだった。
 かくて万事うまくいった。だれにも少しも気づかれなかった。ところがある日、弟のエルンストが、クリストフの抜け出すことを言いつけてしまった。それ以来、抜け出すことを禁ぜられ、監視された。それでも彼はやはり抜け出していた。他のどんな連中よりも、小行商人とその友人らとの方が好きであった。家の者らは外聞にかかわると思った。メルキオルは彼に下賤《げせん》な趣味があるのだと言っていた。ジャン・ミシェル老人は彼がゴットフリートを慕ってるのを妬《ねた》んでいた。そして、優良な社会に接し高貴な方々に仕えるの名誉をもってるのに、そういう卑しい人々と交わって喜ぶほど身を落すのはよくないと、いろいろ説いてきかした。クリストフには気品がないのだと人々は思っていた。

 メルキオルの放縦と遊惰とにつれて家計の困難はつのってきたけれど、ジャン・ミシェルがいる間は、どうかこうか生活してゆけた。ただ彼一人が、メルキオルに多少の威力をもっていて、ある程度までその堕落を引止めていた。また彼が受けてる世間の尊敬は、酔漢《よいどれ》の不品行を他人に忘れさせるのに役だたないではなかった。また彼は一家の貧しい暮しを助けてくれた。彼は前音楽長として受けていたわずかな年金のほかに、なお音楽を教えたりピアノの調律をしたりして、いくらかの金額を手に入れていた。そしてその大部分を嫁のルイザに与えた。彼女は自分の困窮を、いくら彼の眼に入れまいとしても隠しきれなかった。老人が自分たちのために不自由をしてるかと思うと、彼女はやるせなかった。老人はいつも豊かな生活になれていて、欲望が強かっただけに、そう思われるのも無理はなかった。が時とすると、その犠牲の金でも十分でないことがあった。ジャン・ミシェルはさし迫った負債を払ってやるために、大事な道具や書物や記念品などを、秘密に売り払わなければならなかった。メルキオルは父がひそかにルイザへ補助を与えてるのに気づいていた。そしてしばしば、なんと拒《こば》まれてもそれに手をつけることが多かった。ところが老人はふとそれを知って――苦労をつつみ隠してるルイザの口からではなく、孫の一人の口から――聞き知って恐ろしく立腹した。そして二人の間には、ぞっとするような光景が演ぜられた。二人ともなみはずれて気荒かった。すぐにひどい言葉を言い合いおどし合った。今にも殴り合いが始まるかと思われた。しかし憤怒の最中にも、押うべからざる尊敬の念が常にメルキオルを制していた。そして酔っ払ってはいたが、父から浴せ
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