よ! おれを馬鹿にするなよ!……」
 そして突然クリストフは、死者の寝床に横たわってる自分自身を見た。それらの恐ろしい言葉が自分の口から出るのを聞いた。空しく失われた償いがたい生涯の絶望の念が、自分の心に重くのしかかってくるのを感じた。そして彼は駭然《がいぜん》として考えた。「ああ、かくなり果てるよりもむしろ、あらゆる苦悶、あらゆる悲惨の方が!」……いかほど彼はそうなり果てようとしたことだろう。卑怯《ひきょう》にも苦しみをのがれるために、生命を断つの誘惑に危く従おうとしたではないか。あたかも、あらゆる苦しみ、あらゆる裏切りは、おのれを裏切りおのれの信念を否定し死しておのれを蔑《さげす》むという最大の苦悶と罪悪とに比べても、なお子供らしい心痛ではないとでも思っていたかのように!
 人生は容赦なき不断の争闘であって、一個の人間たる名に恥ずかしからぬ者となることを欲する者は、眼に見えない数多《あまた》の敵軍、自然の害力や、濁れる欲望や、暗い思考など、すべて人を欺いて卑しくなし滅びさせようとするところのものと、たえず闘わなければならないということを、彼は知った。自分はまさに罠《わな》にかかるところであったということを、彼は知った。幸福や恋愛はちょっとの欺瞞《ぎまん》であって、人の心をして武器を捨てさせ地位を失わせるものであるということを、彼は知った。そして、清教徒《ピューリタン》たるこの十五歳の少年は、おのれの神の声を聞いた。
「往《ゆ》け、往け、決して休むことなく。」
「しかし私はどこへ往くのであろう、神よ。何をしても、どこへ往っても、終りは常に同じではないか、終局がそこにあるではないか。」
「死すべき汝《なんじ》は死へ往け! 苦しむべき汝は苦しみへ往け! 人は幸福ならんがために生きてはいない。予が掟《おきて》を履行せんがために生きているのだ。苦しめ。死ね。しかし汝のなるべきものになれ――一個の人間に。」



底本:「ジャン・クリストフ(一)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年6月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
2009年2月13日修正
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