はアフリカや極東と取引をしてる商館にはいっていた。新しいドイツ人の一つの型《タイプ》を具えていた。そういう型のドイツ人らは、民族性たる古い理想主義を嘲《あざけ》って、それを脱却するようなふうを装い、また戦勝に酔って、力と成功とにたいし、自分らがそれをもちつけないことを示す一種の崇拝心をいだいている。けれども、一国民の古来の性質を一挙に変化せしむることは困難であるから、押えつけられた理想主義は、言葉や、態度や、精神上の習慣や、家庭生活の些細《ささい》な行為に引用せられるゲーテの言葉などのうちに、たえず現われ出していた。良心と功利との独得な混合であり、古いドイツ中流社会の主義の正直さと、新しい雇用店員階級の卑しさとを、たがいに一致させんための不思議な努力であった。この混合こそ、かなり嫌悪《けんお》すべき偽善の匂いをもたざるをえないものであった――なぜなら、それはドイツの力と貪婪《どんらん》と利益とをもって、あらゆる権利と正義と真理との象徴だとするにいたったから。
クリストフの公正な心はそれに深く傷つけられた。伯父《おじ》が正当であるかどうかを彼は判断することができなかったけれども、伯父を忌み嫌い、伯父のうちに敵があるのを感じていた。祖父もやはり伯父の意見を好まないで、それらの理論にたいして反感をいだいていた。しかし彼は議論になると、テオドルの快弁にすぐ言い伏せられた。老人の寛大な純朴さを嘲弄《ちょうろう》するのは、テオドルにとっては容易なことだった。ジャン・ミシェルもついには、自分の人の善《よ》さが恥ずかしくなった。そして人が考えてるほど時代おくれでないことを示すために、テオドルと同じようなしゃべり方をしようと努めた。けれども口の中でうまく調子がとれなくて、自分でも当惑していた。そのうえどういう考え方をしていても、いつもテオドルに威圧されていた。老人はたくみな処世術にたいして尊敬を感じていて、自分にまったくできないことだと知ってるだけに、いっそうそれを羨《うらや》んでいた。孫のうち一人くらいはそういう地位に立たしてやりたいと夢想していた。メルキオルもまた、ロドルフをその伯父と同じ道に進ませるつもりだった。それで家じゅうの者は皆、種々な世話を期待して、その金持ちの親戚《しんせき》につとめて媚《こび》を呈していた。向うでは、自分がなくてならない者であることを見て取り、それ
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