望が、かすかな予感が、夢想に沈んでる子供の心に目覚めてきた。
突然クリストフは、なんとない不安にとらえられて我に返った。眼をあげると、夜。耳を澄ますと、静寂。祖父は出かけたのである。彼は身を震わした。祖父の姿を見ようとして窓から覗《のぞ》き出すと、街道はひっそりしていた。すべてのものが脅《おびや》かすような様子になりだした。ああ、あいつ[#「あいつ」に傍点]がやって来でもしたら! だれが?……クリストフはだれであるかを知らなかった。ただ、恐ろしいものが……。方々の戸はよく閉まっていなかった。木の階段に、何かが上ってでも来るような音が軋《きし》った。子供は飛び上がった。肱掛椅子と二つの椅子とテーブルとを、室のいちばん奥の隅に引きずっていって、それで防柵《ぼうさく》をこしらえた。肱掛椅子を壁によせかけ、左右に椅子を一つずつ置き、前方にテーブルをすえた。中央に二重梯子を備えつけた。そしてその頂上に身をおちつけ、包囲された場合の弾薬としては、今までもってた書物と他のいく冊かの書物とを手にして、ほっと息をつきながら、幼い想像をめぐらして、敵はいかなる場合にもこの防柵を越えることはできないものと一人できめた。越えてはいけなかったのだから。
しかし時とすると、書物から敵が出て来ることさえあった。――祖父がでたらめに買い求めた古本の中には、子供に深い印象を与える插絵のついてるのがあった。それらの插絵は、子供を惹《ひ》きつけるとともに恐れさした。奇怪な幻影の絵があり、聖アントアンヌの誘惑の絵があって、鳥の骸骨《がいこつ》が水差の中に脱糞していたり、無数の卵が腹の裂けた蛙《かえる》の中で虫のようにうごめいていた、頭が足で立って歩いていたり、尻《しり》がラッパを吹いていたり、あるいは世帯道具や獣の死骸などが、大きなラシャにくるまり、老婦人のような敬礼をしながら、しかつめらしく歩を運んでいた。クリストフはひどく厭《いや》な気がした。けれどそのためにかえってまた惹きつけられた。彼はそれらの插絵を長い間眺めた。そして時々、窓掛の襞《ひだ》の中に動いてるものを見るために、ちらりとあたりを見回した。――解剖学の書物の中にある剥皮体《はくひたい》の図は、なおいっそう忌《いま》わしいものだった。その絵がはいってる場所に近づくと、ページをめくりながら震えた。その奇妙な形をした雑色は、彼にたいして異常な強さをもっていた。子供の頭脳に特有な創造力は、取扱い方の貧弱なのを補ってくれた。その粗雑な絵と現実との間の差異が、彼には少しも分らなかった。夜になると、昼間見た生きてる物の姿よりもいっそう強く、それらのものが彼の夢想に働きかけてきた。
彼は眠りを恐れた。いく年もの間、彼の安息は悪夢に害された。――穴倉の中を歩き回っていた。すると渋面した剥皮体《はくひたい》が風窓からはいってくるのが見えた。――一人で室の中にいた。すると廊下に軽い足音が聞えた。彼は扉に飛びかかってそれを閉めようとした。ちょうどハンドルをつかむだけの隙《すき》があった。しかしそれはもう外から引張られていた。彼は鍵《かぎ》をかけることができなかった。力が弱ってきた。助けを呼んだ。扉の向うからはいって来ようとしてるもの[#「もの」に傍点]がなんだか、彼はよく知っていた。――家の人たちの中に交っていた。すると突然、皆の顔色が変わった。彼らは変なことを始めた。――静かに書物を読んでいた。すると眼に見えない者が自分のまわり[#「まわり」に傍点]にいるのを感じた。彼は逃げようとしたが、縛られてるのが分った。声をたてようとしたが、猿轡《さるぐつわ》をはめられていた。気味悪いものが抱きついてきて喉《のど》がしめつけられた。息がつまりそうになって歯をがたがたさせながら、眼を覚した。目覚めた後もなお長い間震えつづけた。どうしても悩ましい気分を追い払うことができなかった。
彼が眠る室は、窓も扉もない小部屋であった。入口の上の棒に掛ってる古い垂幕だけが、両親の室との仕切になっていた。立ちこめた空気が息苦しかった。同じ寝室に寝てる弟たちから足で蹴《け》られた。彼は頭が燃えるようになり、半ば幻覚のうちにとらえられて、昼間の種々なつまらない心配事が、はてしもなく大きくなって浮かび上がってきた。悪夢に近いそういう極度の神経緊張の状態の中では、些細《ささい》な刺激も苦悩となった。床板の鳴る音も、彼に恐怖を与えた。父の寝息も、奇怪に高まって聞こえた。もう人間の息とは思えなかった。その馬鹿に大きな音が彼を脅《おびや》かした。そこには獣が寝てるような気がした。彼は夜に圧倒されていた。夜はいつまでも終りそうになかった。いつまでもそのままつづきそうだった。もう数か月も寝たままのような気がした。彼はけわしい息をつき、寝床の上に半身を起こし、そこにすわって、シャツの袖《そで》で汗ばんだ顔を拭《ふ》いた。時とすると彼は、弟のロドルフを突っついて起こそうとした。しかし弟は何かぶつぶつ言いながら、夜具をすっかり自分の上に引きよせて、またぐっすり眠ってしまった。
彼はそういうふうにして、熱っぽい悩みのうちにとらえられていると、ついに蒼白《あおじろ》い一条の光が垂幕の裾《すそ》の床《ゆか》の上に現われた。はるかな黎明《れいめい》の弱々しい明るみは、にわかに安らかな気を彼のうちにもたらした。だれもまだその明るみを闇と見分けることができないころ、彼はすでにそれが室の中に忍び込んでくるのを感じた。するとただちに、あふれた河水がまた河床のうちに引いてゆくように、彼の熱はさめ、彼の血は静まった。同じ温かさが身体じゅうをめぐり、不眠のため燃えるようになってる彼の眼は閉じていった。
晩になると、彼はまた眠る時がやって来るのを見て震え上がった。悪夢の恐ろしさのあまり、眠りに負けず夜通し起きていようときめた。けれどしまいにはいつも疲労にうち負かされた。そしていつも思いも寄らない時に怪物がまた現われてきた。
恐るべき夜! 多くの子供にはいかにも楽しく、ある子供にはいかにも恐ろしい!……クリストフは眠るのを恐れた。また眠らないのを恐れた。眠っていても目覚めていても、奇怪な姿に、精神から出てくる妖怪《ようかい》に、悪鬼に、彼はとりかこまれた。それらのものは、病魔の気味悪い明暗の境におけると同じく、幼時の薄ら明るみの中に浮動しているものである。
しかしそれら想像上の恐れは、やがて大なる恐怖[#「恐怖」に傍点]の前には消え失せなければならなかった、あらゆる人に食い込み、人知がいかに忘れんとつとめ否定せんとつとめても甲斐《かい》のない恐怖、すなわち死[#「死」に傍点]の前には。
ある日、彼は戸棚《とだな》の中をかき回しながら、見知らぬ物に手を触れた。子供の上着や縞《しま》の無縁帽があった。彼はそれらの物を得意になって母のところへもって行った。母は笑顔《えがお》を見せもしないで、不機嫌《ふきげん》な顔付をして、元のところへ置いて来るように言いつけた。彼がその訳を尋ねながらぐずぐずしていると、母はなんとも答えないで、彼の手から品物をもぎ取って、彼の届かない棚の上に押し込んでしまった。彼はたいへん気にかかって、しきりに尋ねだした。母はついに言った、それらのものは彼が生まれて来ない前に死んだ小さな兄のものであると。彼はびっくりした。かつてそんなことを聞いたことがなかったのである。彼はちょっと黙っていたが、それからもっと詳しく知りたがった。母の心は他に向いてるらしかった。けれども、その兄もやはりクリストフという名だったが彼よりもっとおとなしかった、とだけ言ってきかした。彼はなお種々のことを尋ねた。母は答えるのを好まなかった。兄は天にいて皆のために祈っていてくれるとだけ言った。クリストフはそれ以上聞き出すことができなかった。余計なことを言うと仕事の邪魔になる、と母は言った。実際彼女は縫物に専心してるらしかった。何か気がかりな様子をして、眼をあげなかった。しかししばらくすると、彼が片隅《かたすみ》に引込んでむっつりしてるのを眺め、笑顔を作りだして、外に遊びにおいでとやさしく言った。
その会話の断片は、深くクリストフの心を動かした。してみると、一人の子供がいたのである、自分の母親の小さな男の子が、自分と同じようで、同じ名前で、ほとんど同じ顔付をして、しかも死んでしまった子が!――死、彼はそれがどんなことだかはっきり知らなかった。しかし何か恐ろしいことらしかった。――そしてだれも、そのも一人のクリストフのことをかつて話さなかった。もうすっかり忘られてしまっていた。もしこんどは自分が死んだら、やはり同じようになるのではあるまいか?――そういう考えは、晩になって、皆といっしょに食卓につき、皆がつまらないことを談笑してるのを見た時、なお彼に働きかけてきた。彼が死んでしまった後も皆は快活にしてるかもしれない! おう、自分の小さな子供が死んだ後でも母親は身勝手に笑いうるものであろうとは、彼はかつて思ってもみなかった。彼は家じゅうの者が厭《いや》になった。死なない先から、自分自身を、自分の死を、嘆き悲しみたくなった。それとともに、種々なことを尋ねたかった。しかしそれもできかねた。母親がどんな調子で黙ってくれと言ったかを、彼は思い起こした。――ついに彼はたえられなくなった。そして床についた時、接吻しに来たルイザに尋ねた。
「お母さん、やはり私の寝床に寝ていたの?」
彼女は身を震わした。そして平気を装った声で尋ねた。
「だれが?」
「あの子供、死んでしまったあの……。」とクリストフは声を低めて言った。
母の両手はにわかに彼を抱きしめた。
「そんなこと言うんじゃありません、言うんじゃありません。」と彼女は言った。
彼女の声は震えていた。彼女の胸に頭をもたしていたクリストフには、その胸の動悸《どうき》が聞こえた。
ちょっと沈黙が落ちてきた。それから彼女は言った。
「もう決してそのことを言ってはいけませんよ……。落ちついてお眠んなさい……。いいえこの寝床ではありません。」
彼女は彼を接吻した。彼女の頬《ほお》が濡れてると彼は思った。濡れてると信じたかった。彼はいくらか心が安らいだ。彼女は悲しんでたのだ! けれども、すぐその後で、彼女がいつものとおりの落付いた声で口をきくのが、隣りの室に聞えた時、彼はまた疑いだした。今と先刻と、どちらがほんとうだろうか?――彼はその答えを見出さないで、長い間床の中で寝返りをうっていた。彼は母親に心を痛めていてもらいたかった。彼女が悲しんでると考えることはもちろん悲しかった。しかしやはり嬉《うれ》しくもあった。それだけ一人ぽっちの感じが薄らぐのだった。――彼は眠っていった。そして翌日になると、もうそのことを考えなかった。
数週間後のことだったが、往来でいっしょに遊ぶ悪戯《いたずら》仲間の一人が、いつもの時刻にやって来なかった。彼は病気だと仲間の一人が言った。それからはもう、彼の姿が遊びの中に見えなかった。理由はわかっていた。なんでもないことだった。――ある晩、クリストフは寝ていた。時間はまだ早かった。彼の寝床のある小部屋から、両親の室の燈火が見えていた。だれかが扉《とびら》をたたいた。隣りの女が話に来たのだった。彼はいつものとおり勝手な物語をみずから自分に話しながら、ぼんやり耳を傾けていた。会話の言葉はすっかりは聞きとれなかった。ところがふいに、「あれは死にました」という女の言葉が聞えた。彼の血はすっかり止まった。だれのことだかわかったのである。彼は息をこらして耳を澄ました。両親は大声をたてた。メルキオルの銅羅《どら》声が叫んだ。
「クリストフ、聞いたか。かわいそうにフリッツは死んだよ。」
クリストフはじっとこらえて、落着いた調子で答えた。
「ええ、お父《とう》さん。」
彼は胸がしめつけられた。
メルキオルはなお言った。
「ええ、お父さん、だって。お前の言うことはそれだけなのか。お前はなんとも思わないのか。」
子供の心を知っていたルイザは言っ
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