ジャン・クリストフ
JEAN CHRISTOPHE
第一巻 曙
ロマン・ローラン Romain Rolland
豊島与志雄訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)捧《ささ》ぐ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)手|真似《まね》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]
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いずれの国の人たるを問わず、

苦しみ、闘い、ついには勝つべき、

あらゆる自由なる魂に、捧《ささ》ぐ。

          ロマン・ローラン
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昼告ぐる曙《あけぼの》の色ほのかにて、
汝《な》が魂は身内に眠れる時……
     ――神曲、煉獄の巻、第九章――
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     一

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うち湿りたる濃き靄《もや》の
薄らぎそめて、日の光
おぼろに透し来るごとくに……
     ――神曲、煉獄の巻、第十七章――
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 河の水音は家の後ろに高まっている。雨は朝から一日窓に降り注いでいる。窓ガラスの亀裂《ひび》のはいった片隅には、水の滴《したた》りが流れている。昼間の黄ばんだ明るみが消えていって、室内はなま温くどんよりとしている。
 赤児《あかご》は揺籃《ゆりかご》の中でうごめいている。老人は戸口に木靴を脱ぎすててはいって来たが、歩く拍子に床板《ゆかいた》が軋《きし》ったので、赤児はむずかり出す。母親は寝台の外に身をのり出して、それを賺《すか》そうとする。祖父は赤児が夜の暗がりを恐《こわ》がるといけないと思って、手探りでランプをつける。その光で、祖父ジャン・ミシェル老人の赤ら顔や、硬い白髯《しろひげ》や、気むずかしい様子や、鋭い眼付などが、照らし出される。老人は揺籃のそばに寄ってゆく。その外套《がいとう》は雨にぬれた匂いがしている。彼は大きな青い上靴《うわぐつ》を引きずるようにして足を運ぶ。ルイザは近寄ってはいけないと彼に手|真似《まね》をする。彼女は白いといってもいいほどの金髪で、顔立はやつれていて、羊のようなやさしい顔には赤痣《あかあざ》があり、唇《くちびる》は蒼《あお》ざめて厚ぼったく、めったにあわさらず、浮べる微笑もおずおずとしている。彼女は赤児を見守っている――ごく青いぼんやりした眼で、その瞳《ひとみ》はきわめて小さいがいたって物優しい。
 赤児は眼を覚して泣く。その定かならぬ目差《まなざ》しは乱される。なんという恐ろしさだろう! 深い闇《やみ》、ランプの荒々しい光、渾沌《こんとん》のなかから出てきたばかりの頭脳の幻覚、周囲にたちこめている息苦しいざわめく夜、底知れぬ影、その影の中からは、まぶしい光線のように強く浮かび出してくる、強烈な感覚が、苦悩が、幻影が、こちらをのぞきこんでるそれらの巨大な顔が、自分を貫き自分のうちにはいり込む意味の分らないそれらの眼が!……赤児は声をたてる力もない。彼は身動きもせず、眼を見開き、口を開け、喉《のど》の奥で息をしながら、恐怖のために釘付《くぎづけ》にされる。その膨《ふく》れた大きな顔には皺《しわ》が寄って、痛ましい奇怪な渋面《じゅうめん》になる。顔と両手との皮膚は、栗色で紫がかっており、黄っぽい斑点がついている……。
「いやはや、なんて醜い奴だ!」と老人は思い込んだ調子で言った。
 彼はランプをテーブルの上に置きに行った。
 ルイザは叱《しか》られた小娘のように口をとがらした。ジャン・ミシェルは横目で彼女を眺《なが》めて、そして笑った。
「きれいな奴だと言ってもらおうとは、お前も望んでやすまい。お前にだってきれいだとは思えまい。だがいいさ、お前のせいじゃない。赤ん坊てものはみんなこんなものだ。」
 子供はランプの炎と老人の目差《まなざ》しとに驚き、ただ惘然《ぼうぜん》として身動きもしなかったが、やがて声をたて始めた。おそらく彼は母親の眼の中に、苦情を言うがいいと勧めるような愛撫《あいぶ》を、本能的に感じたのであろう。彼女は彼の方へ両腕を差出して言った。
「私にかしてください。」
 老人はいつもの癖で、まず理屈を並べたてた。
「泣くからといって子供の言うままになってはいけない。勝手に泣かせることだ。」
 しかし彼は子供のところへ来て、それを抱き上げ、そしてつぶやいた。
「こんな醜い奴は見たことがない。」
 ルイザはわなわなしてる手で子供を受取り、胸深く抱いた。彼女はきまり悪げなまた喜びにたえないような微笑を浮べて、子供を見守った。
「おう、かわいそうに、」と彼女はたいそう恥ずかしそうにして言った、「坊やはなんて醜いでしょう、なんて醜いでしょう、ほんとにかわいいこと!」
 ジャン・ミシェルは暖炉のそばにもどった。彼は不機嫌な様子で、火をかきたて始めた。しかしその顔に装ってる陰鬱なしかつめらしさは、軽い微笑の影で裏切られていた。
「お前、」と彼は言った、「ねえ、苦にしちゃいけない。まだまだこれから顔付は変わるものだ。それに、醜いったってそれがなんだ? この子に求むることはただ一つきりだ、りっぱな者になってくれということだ。」
 子供は母親の温かい身体に触《さわ》って心が和らいでいた。息を押えて貪《むさぼ》るように乳を吸ってる音が聞えていた。ジャン・ミシェルは椅子《いす》の上で軽く身をそらして、おごそかにくり返した。
「正直な男ほどりっぱなものはない。」
 彼はちょっと黙って、その思想を敷衍《ふえん》したものかどうか考えた。しかしそれ以上言うべきことを見出さなかった。そしてしばらく黙った後、激した調子で言い出した。
「夫がいないとは、どうしたことだ?」
「芝居に行ってるのでしょう。」とルイザはおずおず言った。「下稽古《したげいこ》がありますから。」
「芝居小屋は閉まっている。わしは今その前を通って来たんだ。それもまた彼奴《あいつ》の嘘《うそ》だ。」
「いいえ、あの人ばかりをいつもおとがめなすってはいけません。私の思い違いかもしれませんから。では出稽古に手間取ってるのでしょう。」
「もう帰って来られるはずだ。」と老人は満足しないで言った。
 彼はちょっと躊躇《ちゅうちょ》して、それから少し気恥しげに声を低めて尋ねた。
「彼奴《あいつ》は……また……?」
「いいえ、お父《とう》様、いいえ。」とルイザは急《せ》き込んで言った。
 老人は彼女を眺めた。彼女はその前に顔をそらした。
「ほんとうじゃない、お前は嘘をついてるな。」
 彼女は黙って涙を流した。
「ああ!」と老人は大声を出しながら、暖炉を一つ蹴《け》った。火掻《ひかき》棒が落ちて大きな音をたてた。
 母親と子供とはふるえあがった。
「お父様、どうぞ、」とルイザは言った、「坊やが泣き出しますから。」
 子供は泣声をたてたものかそれともやはり静かにしていようかと、しばらく躊躇《ちゅうちょ》した。しかし両方を同時にすることができないので、やはり静かにしていた。
 ジャン・ミシェルは腹立ちまぎれにいっそう太い声で言いつづけた。
「わしはどんなことをした報《むく》いで、あんな酔漢《よいどれ》を息子に持ったのか! わしのような生活をし、万事に不自由な目を忍んだのも、むだな骨折りだったのか!……だがお前は、お前は彼奴《あいつ》を制することができないというのか。なぜかって、そりゃあお前の役目じゃないか。お前が彼奴を家に引留めさえしたら……。」
 ルイザはなお激しく涙を流していた。
「このうえ私を叱《しか》ってくださいますな、私もうたいへん不仕合せですもの。私はできるだけのことはしました。ああ一人でいるとどんなに恐ろしい思いをしていますか、それを察してくださいましたら! いつでも階段にあの人の足音が聞えるような気がします。すると私は扉《とびら》が開くのを待ちます。まああの人はどんな様子で出てくるかしらと考えます。……それを思ってみるだけでも気がふさいできます。」
 彼女はすすり泣きに身をふるわしていた。老人は気をもんだ。彼は彼女のそばにやって来、その震えてる両肩に乱れた蒲団《ふとん》をかけてやり、大きな手でその頭をなでてやった。
「さあ、さあ、心配することはない。わしがついてる。」
 彼女は子供のことを思ってむりに気を鎮《しず》め、そして微笑《ほほえ》もうとした。
「あんなことを申しましたのは、私が悪うございました。」
 老人は頭をうち振りながら彼女を眺めた。
「かわいそうに、わしがお前にやった贈物はりっぱなものではなかった。」
「私の方が悪いんです。」と彼女は言った。「あの人は私みたいな者と結婚なさるのではありませんでした。自分のしたことを後悔なすっています。」
「何を後悔しているって?」
「それはあなたがよく御存じでございましょう。私があの人の妻になりましたのを、あなた御自身でも気を悪くしていらっしゃいました。」
「もうそんな話をするもんじゃない。なるほどわしは多少不満だった。あのような青年――こう言ったって何もお前の気にさわりはすまい――わしが注意して育て上げた青年、すぐれた音楽家で、ほんとうの芸術家で――まったく彼は、お前のように貧乏で、身分が違い、なんの技能もない者より、もっとほかの女を選むこともできたはずだ。クラフト家の者が音楽家でもない娘と結婚するなんてことは、もう百年あまりこの方|例《ためし》がないんだ!――それでも、お前もよく知ってるとおり、わしはお前を恨んだこともないし、お前と知り合ってからはいつも好意をもっていた。それに、一度こうときまってしまえば、もう後もどりはできない。あとはただ義務を尽すことばかりだ、正直に。」
 彼は元の席へもどって腰掛け、ちょっと間をおいて、それから、いつも自分の格言を口にする時のような厳《いかめ》しさで言った。
「人生で第一のことは、おのれの義務を尽くすことだ。」
 彼は抗議を待ち受け、火の上に唾《つば》をした。それから、母親も子供もなんら異論をもち出さなかったので、なお言葉をつづけたく思った――が、口をつぐんだ。

 彼らはもう一言も口をきかなかった。ジャン・ミシェルは暖炉のそばで、ルイザは寝床にすわって、二人とも悲しげに夢想していた。老人はああは言ったものの、息子の結婚のことを苦々《にがにが》しげに考えていた。ルイザの方も同じくそのことを考えていた、そしてみずから非難すべき点は何もなかったけれど、それでも気がとがめていた。
 ジャン・ミシェルの子メルキオル・クラフトと結婚した時、彼女は女中であった。でその結婚にはだれも驚いたが、とくに彼女自身が驚いた。クラフト家には財産はなかったが、約半世紀前に老人が居を定めたそのライン河畔の小さな町では、かなり尊敬されていた。彼らは父子代々の音楽家で、その地方、ケルンとマンハイム間では、音楽家仲間に名が知れわたっていた。メルキオルは宮廷劇場のヴァイオリニストであった。ジャン・ミシェルは近頃まで大公爵の演奏会を指揮していた。でこの老人はメルキオルの結婚に深い屈辱を感じた。彼は息子に大きな希望をかけていて、自分自身ではなれなかったけれども、息子の方は高名な人物になしたいと思っていた。ところがこの無謀な結婚は、その望みを打ち壊《こわ》してしまった。それで最初のうちは盛んに怒鳴りたて、メルキオルとルイザとをののしりちらした。しかし根が正直な人だけに、嫁の気心をよく知ってくると、すぐに彼女を許してやった。そして父親としての愛情をさえ心にいだくようになった。がその愛情はたいてい冷たい素振りとなって現われていた。
 メルキオルが何に駆《か》られてそういう結婚をしたのか、だれも了解することができなかった――だれよりもメルキオル自身に訳が分らなかった。確かにルイザの美貌《びぼう》のせいではなかった。彼女は少しも人を惑わすような点を
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