力が、感覚よりも他の力が、――普通の力が皆眠っている虚無の瞬間に主権を握るある神秘な力が、おそらく存在しているのかもしれない。ある夕方、ライン河畔で、メルキオルがこの若い娘に近づき、葦《あし》の中で彼女のそばにすわり――みずから理由も知らないで――彼女に婚約を与えた時、おずおずと彼を眺めてる彼女の沈んだ瞳《ひとみ》の底で、彼はこの神秘な力に遭遇したのであろう。
結婚するとすぐに、彼は自分のしたことに落胆したような様子をした。彼はそのことをあわれなルイザにもさらに隠さなかった。ルイザはいかにもつつましやかに、彼に許しを求めた。彼は悪い男ではなかった、そして快く彼女を許してやった。しかしすぐその後で、友人らの間に交わったり、または金持ちの女弟子の家に行ったりすると、ふたたび悔恨の念にとらえられた。女弟子らはもう軽侮の様子を見せていて、彼が鍵盤《キー》の上の指の置き方を正してやろうとして手でさわっても、もはや身を震わすようなことはなかった。すると彼は陰鬱《いんうつ》な顔付をしてもどって来た。ルイザはそれを一目見て、またいつもの非難をよみとって、つらい思いをした。あるいはまた彼は、居酒屋に立ち寄って遅くなることもあった。彼はそこで、自分自身にたいする満足と他人に対する寛容とを汲みとった。そういう晩には、からから笑いながらもどって来た。しかしそういう笑いは、いつもの口には出さない考えや胸に蓄えてる怨恨《えんこん》よりも、ルイザにはいっそう悲しく思われた。彼女は夫のそうしたふしだらにたいして、自分にも多少責任があるように感じていた。そのふしだらのたびごとに、家の金がなくなるとともに、夫の心に残ってるわずかな真面目《まじめ》さもしだいに消えていった。メルキオルは身をもちくずしていった。たえず勉《つと》めて自分の平凡な才をみがくべき年ごろに、彼はずるずると坂を滑り落ちて顧《かえり》みなかった。そして他人に地位を奪われていった。
しかしながら、麻のような髪の毛の一女中に彼を結びつけた不可知なる力にとっては、それがなんの関係があろうぞ。彼はただ自分の役目を演じたのである。そして今や小さなジャン・クリストフが、運命の手に導かれて、この地上に足を踏み出していた。
すっかり夜になっていた。ジャン・ミシェル老人は暖炉の前で、昔や今の悲しいことどもを考えながらぼんやりしていたが、ルイザの声ではっと我にかえった。
「お父様、あの人はきっと遅くなるでしょう。」と若い妻はやさしく言っていた。「もうお帰りなさいませ、道が遠うございますから。」
「メルキオルが帰るまで待っていよう。」と老人は答えた。
「いいえ、どうぞ、いてくださらない方がよろしゅうございます。」
「なぜ?」
老人は顔をあげて、じっと彼女を眺《なが》めた。
彼女は答えなかった。
彼は言った。
「お前は恐《こわ》がっているね。彼奴《あいつ》にわしを会わせたくないんだね。」
「ええ、そうでございます。お会いになれば事がめんどうになるばかりでしょう。あなたはきっとお怒りなさいます。いやです。お願いですから!」
老人は溜息《ためいき》をつき、立ち上がり、そして言った。
「よしよし。」
彼は彼女のそばに行き、ざらざらした髯《ひげ》で彼女の額をなでた。そして何か用はないかと尋ね、ランプの火をねじ下げ、暗い室の中を椅子《いす》にぶっつかりながら出ていった。しかし階段を降り始めないうちに、息子が酔っ払ってもどってくることを頭に浮べた。彼は一段ごとに立止った。息子が一人で帰って来たらどんなことになるだろうかと、いろいろ危険な場合を想像してみた。
寝床の中では、母親のそばで、子供がまた動きだしていた。未知の苦悩が、おのれの存在の奥底から湧《わ》き上がってきていた。彼は母親に身を堅く押しつけた。身体をねじまげ、拳《こぶし》を握りしめ、眉《まゆ》をひそめた。苦悩は力強く平然と、大きくなるばかりであった。その苦悩がどういうものであるか、またどこまで募ってゆくものか、彼には分らなかった。ただ非常に広大なものであり、決して終ることのないものであるように思われた。そして彼は悲しげに声をたてて泣き出した。母親はやさしい手で彼をなでてやった。苦悩はもうずっと和らいでいた。しかし彼は泣きつづけていた。自分の近くに、自分のうちに、その苦悩がいつもあるように感じていたからである。――大人《おとな》が苦しむ時には、その苦しみの出処を知れば、それを減ずることができる。彼は思想の力によって、その苦しみを身体の一部分に封じ込める。そしてその部分はやがて回復されることもできれば、必要に応じては切り離されることもできる。彼はその部分の範囲を定め、自分自身から隔離しておく。しかし子供の方は、そういうごまかしの手段をもたない。彼と苦しみと
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