それから彼は、ポケットに忍ばしておいたいくつかの菓子をそっとくれた後、恥ずかしい思いをしたかのように、もう一言もいわないでひそかに逃げていった。
 それがクリストフには嬉《うれ》しかった。しかし彼は一日の種々な激情にがっかりしていたので、祖父からもらったうまい物に手をつけるだけの元気もなかった。彼はすっかり疲れぬいていた。ほとんどすぐに眠ってしまった。
 彼の眠りは不整だった。電気を放つように神経がにわかにゆるんで、身体が震えた。荒々しい音楽が夢の中までつきまとってきた。夜中に眼をさました。音楽会で聞いたベートーヴェンの序楽が、耳に鳴り響いていた。序曲のあえぐような息使いで、室の中がいっぱいになってきた。彼は寝床の上に起き上がり、眼をこすりながら、自分はまだ眠ってるのかどうか考えた。……いや、眠ってるのではなかった。彼はその序曲をはっきり聞き分けた。憤怒の喚《わめ》きを、猛りたった吠声《ほえごえ》を、はっきり聞き分けた。胸の中に躍りたつ心臓の鼓動を、騒がしい血液の音を、耳に聞いた。荒れ狂う風の打撃を、顔に感じた。その狂風は、あるいは吹きつのって吠えたて、あるいは強大な意力にくじかれて突然やんだ。その巨大な魂は、彼のうちにはいり込み、彼の四|肢《し》や魂を伸長させて、非常な大きさになした。彼は世界の上を歩いていた。彼は大きな山であって、身内には暴風が荒れていた。憤激の嵐! 苦悩の嵐!……ああなんという苦悩ぞ! しかしそれはなんでもなかった。彼はいかにも強い心地がしていた。……苦しめ! もっと苦しめ!……ああ、強いことはなんといいことだろう! 強くて苦しむことは、なんといいことだろう!……
 彼は笑った。その笑声は夜の静寂のうちに響きわたった。父は眼をさまして叫んだ。
「だれだ?」
 母はささやいた。
「しッ! 子供が夢を見てるんです。」
 三人とも黙った。彼らの周囲のすべても黙った。音楽は消えた。そして聞こえるものは、室の中に眠ってる人々の平らな寝息ばかりだった。それは皆、眩《めくら》むばかりの力で「闇夜」の中を運ばれてゆく脆《もろ》い小舟の上に、相並んで結びつけられてる悲惨の仲間であった。
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[#左右中央]

いかなる日もクリストフの顔を眺めよ、

その日汝は悪《あ》しき死を死せざるべし。



底本:「ジャン・クリストフ(一)」岩波文庫、岩波書店
 
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