ということになった。
 銀座の、女給のいない静かな家を私は選んだ。彼の話でもゆっくり聞くつもりだった。彼が卒業後、神戸の或る会社に勤めてることは、人づてに聞いていた。彼はそこを一年ばかりでやめて、南洋に渡り、ゴム栽培だの珊瑚採集だのに手を出したとか、それも甚だ怪しい話で、結局つまらなくなって戻ってき、こんどは満洲に行く筈とのことだ。然し、東京で相当の就職口があれば、満洲の方は断ってもよいと云うのだ。
 一度放浪した者には東京での就職は無理だろう、というようなことから、酒間の冗談に、私が某会社の重役となり、彼が学校出たての青年となって、口頭試問をやってのけた。
「どういうわけで、君は本社にはいりたいのかね。」――そして私は、和服なのを洋服のつもりで肩をいからし、大仰に左の耳を彼の方に差出した。
「御社が気に入ったからです。」
「うむ。ただ気に入った、だけでは分らないが、どういうところが気に入ったかね。」――私はまた左の耳を彼の方に差出した。
「営業方針が堅実だからです。」
「なるほど、そう見えるかね。」――私はぐっと反身になった。
「ところで、君は何か趣味……興味というものを、もってるだろう。どういうものだね。」――私は眼を細くして、微笑んでみせた。
「あらゆることに趣味と興味とをもっています。」
 私は大袈裟に眉をしかめた。――「それは、若いうちは、何にでも興味があるだろうが、それが、特に、その、スポーツとか、碁将棋とか、釣とか、ゴルフとか……。」――私は天井を仰いだ。
「登山が好きです。」
「なに、登山……、すると、スキーもやるわけだね。それは元気があって、大によろしい。」――私は何度もうなずいてみせた。
「そこで、本社にはいる以上は、献身の覚悟で以てやってくれんければならんが、その辺はどうかね。」――私は大きく小首を傾げてみせた。
「犬馬の労を取るつもりです。」
「うむ。それもよろしいが、犬馬の労といっても、やはりその、礼儀を守らなければいかんし……そう、そこに帽子があるから、ちょっと、取ってみてくれ給え。」
 私は立上って、天井を仰ぎながら、指先で卓上をとんとん叩き始めた。
「よせよ、ばかばかしい。」
 拳固で卓上を叩いて彼は叫んだ。
 私はいい気持で、まだ重役のつもりなんだ、はっはっは……と笑ってみせた。
「いい加減にしろよ。そんな重役、窓から放り出しちまうぞ。」
 はっはっは……私はなお笑いながら、横手の小窓を開くと、なんと、そこに、鉄棒が並んでいるのだ。私はそれにとびついて、更に足でもつかまって、四肢でぶら下りながら、ううう……と揺りはじめた。
 息切れがして、顔が熱くなった。
 飛びおりると、小野は呆気にとられてつっ立っていた。
「オランウータンだ。」
 じっと見つめた時、小野はふいに、顔色を変えた。一瞬、それが長い時間のようで、私たちは眼を見合っていた。小野は一歩よけて、私の肩を捉えた。
「しっかりしろよ。」
 そして私に手を添えて、席につかしてくれた時、私は感じた、私が内心に或る自暴自棄な想念を懐いていて、自殺とか犯罪とかの芽をはぐくんでるんだと、小野が思ったことを。その感じは私を小野から引離し、そして私は小野のことを、愚劣な低俗な奴だと思ったのである。
「オランウータンだ。」
 こんどは、皮肉な落着いた調子で、私はくりかえした。
 小野は眼をしばたたいた。日焼けのした、そして恐らく潮風にも曝されたらしいその顔は、皮膚が厚く強いが、或る窶れと衰えとを底に見せていた。学生時代の敏活な血液と筋肉とはもうなかった。その代りに、感覚の鈍い貪婪な食欲を、私は驚嘆させられることになった。なお二三ヶ所、私たちは食い且つ飲んで歩いた。すっかり酔った。
 再会を約して小野を自動車に送りこんだ後、私は一人で暫く歩いた。何かしら胸の中に一杯鬱積したものがあった。だがそれを吐き出すべき言葉が見つからなかった。見つからないのは持ち合せがないからだ。稲荷様の前に蹲っても、私は九字の秘言きり、云うべき言葉も、祈るべき言葉も、呪うべき言葉さえも持たなかった。鉄格子につかまってそれを徒らに揺ぶるだけで、何になろう。私の前には、濁り淀んだ掘割りの水が、街路の灯を点々と映していた。それを眺めながら、私の頭には或る映像が蘇っていた。子供の頃、河童の見世物を見たことがあった。赤い毛をしょんぼり生やした頭が、大きな樽の水中に、ぽっかりと浮いてはまた沈んでいた。それは瓢箪に毛をうえ目鼻をつけたもので、水中から糸で引張っているのだと、後で知ったけれど、そう分ってみれば更に嫌だった。瓢箪ならば水に浮きたいだろう。それを、浮いたかと思うと糸で水底から引張りこむのだ。水に溺れる者の頭を、浮ぶひょうしに水中に突っ込むのと同じだ。その映像が、私自身に戻ってくる。
 言葉を持つことだ。オランウータン、自分自身の言葉を持つことだ、そう私は繰返したのである。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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