鉄棒をにぎり、そして身体の重みを四肢に托して、鉄格子を力の限り揺ってやったであろう。そしてなお、額に皺をよせ眼を丸くし、歯をむき出し、頭をぶるぶると振わせたであろう。
オランウータンの気持が、私にはよく分るのだ。凡て鉄格子の中にとじこめられてる者の気持も、分るように思える。
これがでたらめな云い草だと思うならば、試みにやってみるもよかろう。うたた寝の眼をさました時、そのまま、むっくり四肢で起き上り、背中をまるく高めて、それから伸びをしてみるのだ。または、四足で立って、尻をふりながら、わんわんと云ってみるのだ。人は猫にも犬にもなれるものだ。オランウータンなどには雑作なくなれる。
形態が、いや姿態が、心理を決定するのだ。
母が亡くなった時、そしてその死体を棺に納めた時、その夜、かりの微睡の布団の中で、私は自分の身体を硬直させた。
呼吸の意識がなくなるくらいに、息を静かに柔く保つのである。眼はじっとつぶって、髪の毛一筋動かさない。両手は胸の上に組合わされている。両足は爪先をそろえて真直に伸ばされている。仰向きの不動の姿だ。
やがて、呼吸が殆んどなくなる。身体がしんしんと冷えてくる。眼がおちくぼみ、頬の肉がおち、唇がひからびて歯にくっつく。無限の静寂。
その中で、母の一生が私の心に映る。大きな労苦と悩みと、ささやかな慰安と、それだけの生涯だ。
母が死んだ後、あらゆる清算の結果、私には半年分の生活費きり残っていなかった。女中任せの独身生活だ。恋人とも疎遠になった。愛の帰結が結婚であるということを信ぜられなかった私は、彼女に起ってきた或る縁談に逆説的に賛成して彼女の機嫌を害したのである。
学校を出てもう三年にもなるのに、まだどこにも就職口がなかった、もしくは就職しないでいた。無方針に、文芸や哲学の書物を濫読していた。頭は冴えてくるし、身体はやせてくるし、生活はだらしなくなっていった。
もう稲荷様のところは通らなくなった。そして二三度、オランウータンを眺めに行った。銀座裏にしじゅう出かけた。
動物園を一巡りして、夕方、最後にまたオランウータンを眺めていると、私の肩を叩いた者がある。学校で親しくしていた小野だった。卒業後初めての邂逅だ。出逢った場所が場所だけに、落伍者めいたばつのわるさで、気持に穴があいた。それをごまかすつもりでもなく、とにかく、一杯飲もうということになった。
銀座の、女給のいない静かな家を私は選んだ。彼の話でもゆっくり聞くつもりだった。彼が卒業後、神戸の或る会社に勤めてることは、人づてに聞いていた。彼はそこを一年ばかりでやめて、南洋に渡り、ゴム栽培だの珊瑚採集だのに手を出したとか、それも甚だ怪しい話で、結局つまらなくなって戻ってき、こんどは満洲に行く筈とのことだ。然し、東京で相当の就職口があれば、満洲の方は断ってもよいと云うのだ。
一度放浪した者には東京での就職は無理だろう、というようなことから、酒間の冗談に、私が某会社の重役となり、彼が学校出たての青年となって、口頭試問をやってのけた。
「どういうわけで、君は本社にはいりたいのかね。」――そして私は、和服なのを洋服のつもりで肩をいからし、大仰に左の耳を彼の方に差出した。
「御社が気に入ったからです。」
「うむ。ただ気に入った、だけでは分らないが、どういうところが気に入ったかね。」――私はまた左の耳を彼の方に差出した。
「営業方針が堅実だからです。」
「なるほど、そう見えるかね。」――私はぐっと反身になった。
「ところで、君は何か趣味……興味というものを、もってるだろう。どういうものだね。」――私は眼を細くして、微笑んでみせた。
「あらゆることに趣味と興味とをもっています。」
私は大袈裟に眉をしかめた。――「それは、若いうちは、何にでも興味があるだろうが、それが、特に、その、スポーツとか、碁将棋とか、釣とか、ゴルフとか……。」――私は天井を仰いだ。
「登山が好きです。」
「なに、登山……、すると、スキーもやるわけだね。それは元気があって、大によろしい。」――私は何度もうなずいてみせた。
「そこで、本社にはいる以上は、献身の覚悟で以てやってくれんければならんが、その辺はどうかね。」――私は大きく小首を傾げてみせた。
「犬馬の労を取るつもりです。」
「うむ。それもよろしいが、犬馬の労といっても、やはりその、礼儀を守らなければいかんし……そう、そこに帽子があるから、ちょっと、取ってみてくれ給え。」
私は立上って、天井を仰ぎながら、指先で卓上をとんとん叩き始めた。
「よせよ、ばかばかしい。」
拳固で卓上を叩いて彼は叫んだ。
私はいい気持で、まだ重役のつもりなんだ、はっはっは……と笑ってみせた。
「いい加減にしろよ。そんな重役、窓から放り出しちまう
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